最上川

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奥の細道・山形県編

元禄2年(1689)6月3日(新暦7月19日)、松尾芭蕉と河合曾良は出羽三山を目指す為に新庄城の城下町を出立。当時、新庄から出羽三山までの行程は陸路が開削されなかった為、最短で行くには最上川を利用するのが常で地元の俳人達から松本村まで見送られた後は2人は最上川舟運の発着場の1つ本合海まで徒歩で移動しました。本合海は最上川舟運の発着場の1つだったものの、一般人が利用するには制限があったようで、新庄の風流(渋谷甚兵衛)と大石田の高野一栄(平右衛門)から添え状により乗船出来たようで、先客として合海から乗船とした2人の禅僧がいました。
最上川:本合海 最上川:芭蕉銅像 最上川:矢向神社 最上川:矢向淵

最上川を下りと古口で一端湊に舟を着けます。古口は新庄藩領で庄内藩の藩境に近い事から重要視され、新庄藩では行政機関の出張施設である代官所が設置され、領内に出入りする人物や荷物を改める為に舟番所を併設しました。その為、最上川舟運の舟はこの舟番所で詮議を受け、確認や許可を得たものだけが通過出来、夜間も最上川の川幅一杯に大縄を張り、密入者を防いでいたそうです。芭蕉一行は風流や一栄の添え状があった為、出迎えてくれた平七の子供である呼四良に関所まで持っていってもらい、容易に古口の関所を通過出来、その際、平七からの添え状を受け取りました。

「奥の細道」の「最上川」の段には次ぎのように記載されています。「最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん、はやぶさなど云う難所有。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨みて立。水みなぎって舟あやうし。」、白糸の滝(日本百名滝)とは最上峡最大の滝で、高さ120m、古くから景勝地として知られ、室町時代に軍記物として編纂された「義経記」では源義経の室として登場する北の方が「最上川 瀬々の岩波 堰き止めよ 寄らで通る 白糸の滝」、「最上川 岩越す波に 月冴えて 夜面白き 白糸の滝」と詠んでいます。仙人堂は源義経の家臣だった常陸坊海尊が修行の末、仙人となり御堂を設けたのが始まりとされ、特に最上川舟運関係者から信仰され、江戸時代中期以降は出羽三山の参拝者が舟運を利用した際に参拝しました。ここで一句・・・

・ 五月雨を 集めて早し 最上川

「奥の細道」の中でも最も有名な句の1つです。この句は大石田の高野一栄(大石田村の船問屋。本名:平右衛門)宅で詠んだ「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」を改変した句とされ、一栄宅では室内から見た最上川の印象が強い句でしたが、実際に水量の多い最上川の川下りを実体験し、その時感じた素直な気持ちが改変版に大きく影響しています。句の意味は、梅雨(五月雨)で降り続いた雨が小さな川となり、それらが集まった最上川は、想像以上に猛烈な流れとなって、私の乗っている小船に襲い掛かってくるようだ。といった意味となっています。

最上川:景観 最上川:白糸の滝 最上川:古口 最上川:古口舟番所

清川から出羽三山までは陸路が整備されている為、清川で上陸。清川は庄内藩領で上記の古口とは逆に新庄藩との藩境を控えていた事から庄内藩が番所を設置し人物改めが行われていました。芭蕉は古口で平七から受け取った添え状を見せましたが、宛先を書き忘れていた為に正式なものとは判断されず、今までの経緯を丁寧に話し何とか許可を得て庄内藩領へ入る事が出来ました。


奥の細道の足跡一覧

温海
左
大山
左
酒田
左
象潟
左
吹浦
左
酒田
左
鶴岡
左
出羽三山
左
最上川
左
新庄
左
大石田
左
山寺立石寺
左
尾花沢
左
封人の家
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