疎水抗口(延沢銀山)概要: 案内板によると「 この疎水坑は、堅刈山の方向に掘進された排水・運搬・通路を主目的とした坑道である。大部分はタガネを用いた手掘りで堀進され、長方形に近い一様な断面形、坑道壁面に残されたノミ跡や、途中に施されている3つ留め支保などから、当時の技術の優秀さをうかがい知ることができる。最終的には1000mを超えて堀進したとされているが、現在は坑口から135m程の処で崩落している。 尾花沢市 」とあります。案内板では建設年代などは不詳ですが、江戸時代前期に日本三大銀山(半田銀山・石見銀山・生野銀山・院内銀山・延沢銀山)に数えられた延沢銀山の施設と思われます。延沢銀山は康正2年(1456)に儀賀市朗左ェ門が発見、戦国時代からは延沢城の城主延沢氏によって本格的に掘削され江戸時代に入り山形藩鳥居家の時代である寛永年間(1624〜1645)に最盛期を向え、元禄2年(1689)に閉山しています。往時は幕府が直接的に支配し代官所が設けられるなど歴史的にも価値が高く疎水抗を含めた鉱山遺跡(銀鉱洞)、山神神社(鉱夫達の信仰施設)、延沢城跡(戦国時代、当地を治めた野辺沢氏居城)が「延沢銀山遺跡」として昭和60年(1985)に国指定史跡となっています。
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