【 庄内屋 】−「庄内屋」を屋号を掲げる粟野家は当地の有力者で、楢下宿が成立すると庄内藩が利用する脇本陣格となりました。屋号も庄内藩に肖ったもので、楢下宿にその他に秋田藩(久保田藩)が利用した脇本陣格の「秋田屋」などがありました。庄内屋は、荘内藩の藩主である酒井家が宿泊所として利用する為、一般的な町屋建築とは異なり、上段ノ間と呼ばれる文字通り、一段高い床に床の間が整備された上級の部屋が用意され、玄関も式台付きの身分の高い人物しか利用出来ない工法が採用されていました。庄内屋は楢下宿の町並みに大きく寄与しています。
【 楢下宿 】−楢下宿(山形県上山市)は羽州街道の宿場町として整備された町です。羽州街道は江戸時代に楢下宿(山形県上山市)出羽国に所領のあった大名の参勤交代で利用し、楢下宿は難所である金山峠(出羽国と陸奥国の間にある峠道)の手前に位置する交通の要衝だった事から宿泊で利用しました。現在でも茅葺屋根の旅籠と農家建築を掛け合わせた武田家や大黒屋など独特の町屋建築が点在し往時の雰囲気が感じ取る事が出来ます。又、大名や身分の高い人物しか利用出来ない脇本陣の滝沢屋(旧丹野家住宅)や、庄内藩主酒井家が定宿とし、脇本陣格だった庄内屋など格式の高い建物も残されています。楢下宿、金山峠は当時の羽州街道の遺構として大変貴重な事から国指定史跡に指定されています。
【 羽州街道 】−羽州街道は出羽国を縦断する主要街道で、奥州街道の脇街道ではあったものの新庄藩・庄内藩・秋田佐竹藩・弘前藩・山形藩・上山藩など奥州13藩が参勤交代で利用するなど重要視され、五街道に次ぐ格式とされます。山形藩主最上家が没落し保科家が会津藩に移封になった後、最大の石高となった秋田藩(久保田藩)佐竹家21万石が羽州街道の整備、開削に尽力し佐竹道と呼ばれる区間があります。羽州街道は奥州街道の桑折宿(福島県桑折町)から分岐して現在の山形県、秋田県を縦断して矢立峠を越えて津軽の青森県に入り、油川宿(青森県青森市)で再び奥州街道に合流します。
【 庄内藩 】−庄内藩は山形藩主最上家が元和8年(1622)に改易になった後に、その版図の一部が徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流である酒井忠勝が松代藩(長野県長野市松代町)から13万8千石で入封し成立した藩です。本城は鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)で、酒井家は譜代の有力大名だった為、酒田港に支城である亀ヶ崎城(山形県酒田市)の築城を許されています。庄内藩は特に出羽国の雄藩である秋田藩(久保田藩)を押さえる役目として重要視され、譜代大名としては珍しく一度も移封せずに明治維新を迎えています。戊辰戦争の際には奥羽越列藩同盟に参加し、逸早く同盟を脱退し新政府軍となった秋田藩(久保田藩)と激しい攻防戦を繰り広げました。
|