柳の清水(新庄市)概要: 松尾芭蕉一行が「奥の細道」行脚で松島(宮城県松島町)や平泉(岩手県平泉町)を訪れた後、猿羽根峠を越えて新庄城下に入ったのは元禄2年(1689)陽暦7月17日の事です。芭蕉は新庄の富豪渋谷風流邸(渋谷甚兵衛邸)で2泊したとされ、そこで開かれた句会で「 水の奥 氷室 尋ねる 柳かな 」の句を残しました。
この句は城下に入る前、柳の清水で喉を潤した時を念頭にしたものだとされ、水と柳=柳の清水、氷室=甚兵衛邸に例えているそうです。句会が開催された日は旧暦でいうと6月1日にあたり、当時の6月1日は「氷室の節句」とされ氷室(地中に大きな穴を空け、そこに雪を積み上部を藁小屋を設ける事で雪が解けにくい構造とした)に貯蔵した氷を食し、暑気払いや夏の厄除けをした事から、「氷室の節句」を開いた甚兵衛邸を氷室に例えています。新庄市は周辺を整備し、芭蕉縁の地として新庄市指定史跡に指定しています。
名称の由来は往時に柳の大木があり根元から懇々と清水が湧き出ていた事に因んだもので昭和初期で枯渇しましたが、それまでは近隣住民や羽州街道を利用した旅人達の喉を潤していました。信仰の対象にもなっていたようで、近くには延命地蔵尊が祀られています。芭蕉はその後本合海で最上川を下り酒田、象潟(秋田県にかほ市象潟)と行脚を続けます。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-新庄市・笹喜四郎誌
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