新庄城

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概要・歴史・観光・見所
新庄城(沼田城・鵜沼城)概要: 新庄城の築城年は不詳です中世、当地方を支配した国人領主の館が築かれていたと推定され当時は鵜沼城と呼ばれていたようです。天正年間(1573〜1592年)には日野有祐が領していましたが、戦国末期の天正9年(1581)、最上義光の侵攻により最上地方は最上領となり、日野家も従属しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、最上義光は東軍に与した事で57万石の大大名となり引き続き領地を安堵され、更に城郭改築し、名称も「新城」と変え最上48館の1つと数えられる程になりました。元和8年(1622)に最上家が御家騒動(最上騒動)で改易されると日野家も連座し藤堂高虎に預けられ城は無城主状態になりました。

同年、戸沢政盛が常陸松岡藩4万石から新庄6万石に加増移封となり新たに新庄藩を立藩します。戸沢家は出羽国仙北郡4万5千を領し角館城現在の仙北市角館町)を本拠とする国人領主でしたが慶長5年(1600)の関が原の戦いで当時の当主戸沢政盛が東軍に属したものの最上義光の讒言などにより慶長7年(1602)に4万石に減じられ松岡藩に移封となりました。

しかし、徳川家康の重臣である鳥居忠政(山形城主)の妹を正室で迎える事で一族衆として地位が向上し、元和8年(1622)鳥居忠政が山形藩22万石で移封に伴い2万石加増され、さらに、政盛は新田開発や鉱山開発、市場改革など積極的に行い実石は6万8千2百石になったとも云われています。

政盛は当初鮭延城真室川町)に入りますが、山城であった事と真室川が領内の北方に位置していた為、幕府に許可を求め新庄城を本城とし、さらに城郭を拡充します。新庄城の改修工事は寛永元年(1624)から1年にわたって行われ、縄張りは鳥居忠政の意見が取り入れたと云われています。

寛永13年(1636)の火災により三層の天守閣が焼失、寛文4年(1664)に2代藩主戸沢正誠が幕府に対して新庄城の改修工事の許可をとっています。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際は、当初、奥羽越列藩同盟に調印しましたが早々に離脱した為、庄内藩から攻め込まれ新庄に駐屯していた新政府軍である薩摩藩・長州藩軍は戦線離脱、その為、当時の藩主戸沢正実は同じく新政府軍となった久保田藩(現在の秋田県、藩主:佐竹氏)に落ち延び新庄城も兵火に塗れ落城しています。同年、同盟側の敗戦により庄内藩も降伏し、新庄城は再び戸沢家が復権しましたが、明治4年(1871)の廃藩置県が執行されると新庄城は廃城となり旧城内には県庁が設置されました。

その後、本丸には新庄学校、郡会議事堂などが建てられ、二の丸には新庄小学校、新庄北高等学校、新庄南高等学校、三の丸は市街地となりました。現在は新庄城本丸跡地は最上公園として整備され市民の憩いの場となっている一方で、水掘りや土塁、表御門の石垣など遺構が残り、天満宮(新庄城の鎮守社、社殿は山形県指定文化財)や戸沢神社(祭神:戸沢衡盛・政盛・正實)、新庄護国神社(戊辰戦争や日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争の戦没者の御柱を祀る)などが建立され新庄市指定史跡となっています。

新庄城は中之川と指首野川を外堀に見立てた輪郭式平城で、当初は本丸(東西52間、南北127間)に三層の天守閣と3棟(東南武器櫓、北東大納戸櫓・北西大納戸櫓)の2重隅櫓を配し、表御門と裏御門は枡形の櫓門、北側には馬出し風の郭がありました。二の丸には政庁が置かれ、城下側の東南方向には大型の枡形の櫓門、三の丸との間にも簡易的な枡形門が設置されていました。三の丸には重臣屋敷、東側には枡形門、東南隅に南門、北側には北門が設置されていました。城下町には羽州街道を引き込み商人町とし新庄城の鬼門鎮護として祈願所の円満寺と戸沢家の菩提寺である瑞雲院を城の北東(鬼門)に配しました。しかし、寛永13年(1636)に火災により天守閣をはじめ多くの建物が焼失、延宝3年(1675)に概ね再建されますが資金難などで天守閣は再建されませんでした。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-新庄市・新庄商工会議所

新庄城:石垣・水堀・土塁・写真

新庄城
[ 付近地図: 山形県新庄市堀端町(最上公園) ]・[ 新庄市・歴史・観光 ]
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