尾花沢市: 延沢城

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概要・歴史・観光・見所
延沢城(尾花沢市)概要: 延沢城は山形県尾花沢市大字延沢に位置する中世の城郭です。延沢城は天文16年(1547)に野辺沢(延沢)薩摩守満重によって築かれた連郭式の山城で、別名で霧山城や野辺沢城と呼ばれていました。野辺沢氏(延沢氏)の出生は不詳ですが応永2年(1395)に当地に流れ着いた日野大学頭昭光(算学兵術家)の後裔とも東根城の城主小田島氏の後裔とも云われています。

戦国時代当初は天童氏に従い、最上八楯(天童氏・延沢氏・飯田氏・尾花沢氏・楯岡氏・長瀞氏・六田氏・成生氏)として最上家と対立していましたが満重の跡を継いだ満延は山形城主最上義光の娘である松尾姫を嫡男光昌の正室に迎えた事で最上家に従属しました。この事で天童氏と最上氏の勢力バランスが大きく傾き天正12年(1584)に、天童城は落城し当主の天童頼澄は母方の実家を頼り仙台領に逃れていきました。満延の跡を継いだ光昌は慶長5年(1600)の奥州の関が原と呼ばれた長谷堂城攻防戦や、庄内地方の上杉軍掃討戦に従軍し功を上げ、尾花沢周辺2万石が与えられ最上家家臣の中でも高位に格付けられました。

特に慶長年間(1596〜1615年)に光昌の命により本格的に開発された延沢銀山(現在の銀山温泉)が全国的にも有力な鉱山として発展した為、それを防衛する為にも延沢城は重要視されました。元和8年(1622年)の主家最上家が御家騒動の為改易となり、光昌も熊本藩主加藤家に預りの身となり、延沢城は幕府に没収され山形藩主鳥居家が管理しています。当時、延沢銀山が最盛期を迎えていた事もあり引き続き延沢城も重要視されましたが正保4年(1647)頃になると減産が顕著になり寛文7年(1667)に延沢城の廃城が決定されると幕府の手によって城郭は破却されます。

延沢城が築かれた標高297mの古城山山頂の本丸は東西110m、南北70m、周囲は土塁で囲い東端と南端には櫓、北側には櫓門付の枡形門、内部には付書院造の主殿が建てられていました。本丸直下は大手郭で枡形の大手門と搦手門が設けられ2之丸と直結し、2之丸にも枡形門が2門と4つの施設が設けられ、山裾の三ノ丸には家中屋敷、街道沿いには城下町を建設しました。主要な郭は11箇所に及び、現在でも形状は略残され、大堀切や2重竪堀、天人清水(井戸)、空堀、土塁などが見られます。

現在も城郭跡には当時の遺構が見る事が出来、本丸跡に聳える樹高26m、幹周7.35mの大杉は樹齢1100年とも言われ昭和30年(1955)に山形県指定天然記念物に指定されています。城郭全体は延沢銀山との関係が深く指定基準(6:交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡)を満たしている事から「延沢銀山遺跡」として昭和60年(1985)に国指定史跡に指定されています。又、延沢城が破却の際、三ノ丸にあった大手門が龍護寺に移築され昭和37年(1962)に尾花沢市指定有形文化財に指定され、搦手門が知教寺に裏門が浄願寺(大石田町指定有形文化財)にそれぞれ移築されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-尾花沢ライオンズクラブ
・ 現地案内板(案内図)-尾花沢市

延沢城:写真

延沢城
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