長谷堂城(山形市)概要: 長谷堂城の築城年は不詳ですが、古くから交通の要衝で天然要害だった事から、山形城の支城としてかなり早い段階で築かれ重要視されてきました。特に米沢城の城主だった伊達家とは長年敵対関係で、その侵攻を防ぐ最終防衛拠点としての役割がありました。永正11年(1514)に伊達稙宗による最上領侵攻により、当時の山形城の城主最上義定(最上9代宗家)は一族や配下の有力領主である天童氏、清水氏、延沢氏、寒河江氏、山野辺、吉川氏などと長谷堂城に籠り対峙しますが、長谷堂城は落城、最上連合軍も大敗し多くの犠牲者を出しています。この敗戦により最上家は事実上伊達家の影響下に入り、有力家臣達の結束力も低下、長谷堂城も伊達家の支配下に入りました。天文11年(1542)、伊達稙宗・晴宗父子の対立から発生した「天文の乱」により伊達領内が混乱すると、その隙に乗じて最上義守(最上10代宗家)は伊達家から独立し、さらに長谷堂城を奪還し領内の防衛に重きを成します。
長谷堂城が全国的に知られたのは出羽の関が原とも呼ばれた慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)で、圧倒的な戦力差があった上杉勢から激戦の末守り抜いた事が挙げられます。慶長5年(1600)、当時の山形城の城主最上義光(最上11代宗家)は東軍(徳川方)に与した為、西軍である上杉勢は直江兼続を大将として最上領に侵入し、多くの支城、砦が陥落して山形城以外は長谷堂城と上山城のみとなります。
上杉勢2万の大軍をもって長谷堂城を取り囲みますが、当時の長谷堂城の城主志村伊豆守光安は5千(1千とも)の兵を率いて籠城し、隙を乗じて夜戦、奇襲などを繰り返し、上杉方の上泉主水、岩井備中、松本杢之助等を討ち取るなど2週間の間持ちこたえました。上杉勢は本戦である関が原で西軍石田三成の敗北を知って自国に引き揚げると最上家は領内だけでなく庄内地方、雄勝地方の西軍も掃討し戦後は57万石が認められ大大名と成長しました。
長谷堂城の戦いで大功があった志村光安には酒田東禅寺城3万石が与えられ、長谷堂城には坂光秀が同じく3万石で城主に就任し、傷ついた長谷堂城の改修と城下町の建設に尽力しました。慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると麓に館を構え、山上の施設は破棄されたようですが元和8年(1622)に最上家が家騒動が元で改易となると麓の館も廃城となっています。
長谷堂城は標高229m(比高約80m)の山頂に築かれた中世の山城で独立峰であった事から四方への俯瞰が良く、山形城なども視野に入れる事が出来ました。山頂に設けられた主郭(東西約70m、南北78m)を中心の求心状に帯郭がまるで棚田のように何段も設けられ、随所に虎口や横矢掛り、2重横堀などが配されていました。登城口は八幡口(北側)、大手口(東側)、搦手観音口(南東側)の3箇所で、長谷堂山を囲うように水堀と土塁が配され、本沢川が天然の外堀に見立てられていました。現在は「長谷堂城跡公園」として整備されています。
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