新徴屋敷(松ヶ岡開墾場)概要: 新徴屋敷は幕末時に庄内藩が江戸市中警備の役に就いた時、その任にあたらせた「新徴組」が庄内での住居として藩から与えられた住宅の事です。
新徴組は浪士で組織されていましたが後に庄内藩の家臣となり、戊辰戦争後の明治3年(1870)鶴ヶ岡城付近にある大宝寺地内に「新徴屋敷」(137棟)を与えられました。
しかし、庄内藩は戊辰戦争の際、東北地方と北陸地方の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟に参画し中心的の立場として行動し新政府軍と敵対し敗戦した事で17万石から12万石と石高を減らされ、困窮しました。
庄内藩は少しでも増産を図る為、松ヶ岡開墾を計画し新徴組もその開発借り出され、新徴屋敷も明治8〜9年(1875〜1876年)に30棟ほど移築されました。
現在の新徴屋敷の建物は匹田家住宅として利用されたものを昭和61年(1986)に現在地に移築復元したもので木造平屋建て、寄棟、石置屋根、外壁板張り、建坪21.25坪、華美な意匠は一切ない質素な造りになっています。新徴屋敷は昭和63年(1988)に鶴岡市指定有形文化財に指定されています。
又、新徴屋敷や松ヶ岡本陣(庄内藩主酒井家の藤島宿での御茶屋本陣を移築し松ヶ岡開墾場の集会所兼事務所として利用)を含む敷地一帯が「松ヶ岡開墾場」として平成元年(1989)に国指定史跡に指定されています。
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