酒田市: 砂越城

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概要・歴史・観光・見所
砂越城(酒田市)概要: 砂越城は山形県酒田市砂越字楯の内に位置する中世の城郭です。砂越城(酒田市)砂越城の明確な築城年は不詳ですが伝承によると久寿元年(1154)、播磨国の豪族赤松家3男が石黒氏を称し当地で館を設けたのが始まりと伝えられています。文治5年(1189)、初代将軍となった源頼朝が奥州合戦の末奥州平泉の藤原家を滅ぼすと出羽の郡司に砂越氏を任じました。砂越氏は砂越城を居城に定めると長く当地を治めました。嘉吉3年(1443)、当時の城主砂越氏信は斯波氏との抗争に破れ矢口将監氏益(足利家氏から4代後裔)の支配となっています。跡を継いだ氏雄は 文明10年(1478)、室町幕府9代将軍足利義尚に官途を申請し、信濃守就任と出羽国飽海郡3万石が安堵され矢口家の地位が確立し、永正9年(1512)には田川郡まで版図を広げています。

永正10年(1513)、大宝寺城(現在の鶴ヶ岡城)に立て籠もる大宝寺澄氏との戦いで大敗、氏雄は討死し一族も四散しました。永正15年(1518)、大宝寺家一族出身の氏維が砂越家の名跡を継ぎ砂越城の城主になると独立を画策し、天文元年(1531)には藤島城の土佐林氏、大宝寺城の武藤氏に勝利し庄内一円は砂越氏の支配領域となっています。

一時衰退した武藤氏でしたが武藤(大宝寺)義氏は越後の本庄氏や上杉氏の協力を得る事で復権し砂越氏もこれに従ったと思われます。天正11年(1583)、本家筋の武藤(大宝寺)義興が最上家の庄内侵攻により破れ越後国に逃亡、砂越氏は最上家に従いますが、天正16年(1587)上杉家の再度の侵攻により砂越城は開城され砂越氏は安東氏を頼り秋田に逃れています。天正17年(1588)十五里ヶ原の戦いで義興と本庄氏から養子の義勝が最上家に勝利し砂越城には上杉家家臣荒川氏が入ります。

慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家は西軍に与した為敗北、慶長6年(1601)には最上軍が庄内にも侵攻し砂越城は落城、城下も兵火に塗れました。江戸時代に入ると最上領となった為、家臣である荒井右衛門が入りましたが、慶長20年(1615)に発令された一国一城令により廃城が決定し元和2年(1616)に破却されました。

砂越城は平城で東西670m(42間)、 南北435m(35間)、本丸と二ノ丸で構成され周囲は土塁と水堀によって囲われていました。さらにその外側にある最上川と屋敷川を上手く取り込み外掘としていました。現在は本丸に諏訪神社、二ノ丸に砂越家の菩提寺である長応寺になった為、比較的良好に城域が残され、空堀、水堀、土塁などを見る事が出来ます。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

砂越城:写真

砂越城
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