総穏寺(鶴岡市)概要: 興林山総穏寺は山形県鶴岡市陽光町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。総穏寺の創建は室町時代初期の南朝暦弘和2年、北朝暦永徳2年(1382)に開かれたのが始まりとされます。
酒井家と関係が深く元和8年(1622)に酒井忠勝が庄内藩(藩庁・鶴ヶ岡城)に移封に伴い鶴岡に移ってきました。総穏寺は「土屋両義士相討之地」の舞台になった寺院です。主人公の土屋(土谷)又蔵は庄内藩士であった土屋久右衛門の3男として生まれ、文化元年(1804:又蔵17歳)に監禁中の兄万次郎を助け出し江戸に出奔しました。
しかし、時が経つにつれ金銭的に困窮するようになり、万次郎は金策の為一端鶴岡に戻ってきます。万次郎は叔父にあたる丑蔵に捕縛、斬首され、それに憤った又蔵が天明8年(1811)に仇討ちを敢行し総穏寺境内にある万次郎の墓の前で両者が相打ちとなり絶命しました。
この事件は世間を呼ぶようになり、江戸末期には芳野金稜が「土谷又蔵伝」を著し、近年では藤沢周平が仇討ちを題材とした「又蔵の火」という短編小説を書いています。
総穏寺山門は寛政4年(1792)に建てられたもので、入母屋、銅板葺き、正面千鳥破風、三間一戸、八脚楼門。総門は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門。本堂は入母屋、銅板葺、平入、正面千鳥破風、正面1間唐破風向拝付。宗派:曹洞宗。山号:興林山。本尊:釈迦如来、迦葉尊者、阿難尊者。
|