天澤寺(鶴岡市)概要: 加藤清正公墓碑案内板によると「 昔から、加藤忠廣公配流のとき密かに清正公の遺骨を運び、この地に葬ったという言い伝えがあり、大正時代に熊本からも発掘調査の要請があったが、時期尚早と断っていた。昭和24年になって漸く調査を実施することとなり、清正閣、神子石・太夫石の調査の後、右手の世代墓地中央の開基様と呼ばれていた五輪塔の下に、肥前(佐賀県)弓野焼の遺骨壺を発見した。
それまでの経緯と五輪塔や1600年ごろに製作された弓野焼の壺を用いていることなど総合的にみて、清正公の墓碑と判断された。昭和38年、山形県指定史跡となり、後に遺骨壺とともに現在の覆堂に納められた。 櫛引町教育委員会・櫛引町観光協会・加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会 」とあります。
清正閣の案内板によると「 加藤忠廣公と正応院様は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に休め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのみであったが、天保年間に祠を建てた。
中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。昭和24年、清正公遺骨探索の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下2m 地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣公の子供のものといわれている。 櫛引町教育委員会・櫛引町観光協会・加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会 」とあります。
庄内十三仏霊場七番(札所本尊:薬師如来)。宗派:曹洞宗。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-櫛引町教育委員会・櫛引町観光協会・加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会
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