出羽三山(山形県鶴岡市)

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出羽三山:概要

羽黒修験と熊野修験: 出羽三山神社:三神合際殿源義経が三世(三瀬)の薬師堂(現在の三瀬気比神社)に滞在していると、田川郡の領主田川太郎実房の使者である大内三郎が一行を尋ねてきました。話しを聞くと太郎には沢山の子供がいましたが瘧病で殆ど亡くなり、残った13歳の子供も重篤だから治してほしいとの依頼でした。最初は出羽三山の羽黒修験に祈祷を頼みましたが全く効き目が無いので、羽黒修験より霊験がある熊野修験の方が祈祷すればきっと御利益があるだろうとの見解でした。義経は源頼朝の追手をはぐらす為に熊野修験の格好をしているだけで本物の修験僧では無い事から祈祷しても治るはずが無いし、ここは既に奥州平泉の藤原領だから田川太郎は藤原秀衡の家臣であると推察できる、その家臣の子供を見舞うより平泉に逸早く到着する方が優先されると言うと、武蔵坊弁慶は、その家臣の親心を汲み取らなかったら人心は義経から離れ、平泉に行っても物笑いの種になるだけだと諭しました。結局、田川氏の館に行く事になり、義経の他、武蔵坊弁慶、常陸坊、片岡常春、十郎権頭の4人が従者として従いました。義経一行が館の中にある仏堂に招かれると、早速、見よう見まねで祈祷を始め、特に弁慶は鬼神に勝る殺気で数珠を繰りました。すると、悪霊や死霊も恐れを成したのか、不思議と子供の病が平癒し、家中に遷ることもありませんでした。実房は熊野権現の御利益を目の当たりして崇めるようになり、義経一行には大変感謝し、多くの御布施与えようとしましたが、義経は、これから羽黒山で修行をするので修行を終え下山するまで預かっていて欲しいと伝え御布施を返すと田川館を後にしました。義経一行は大泉庄大梵字(鶴岡市大宝寺)を経て羽黒山(出羽三山)に向おうとしましたが、北の方(義経の室)が出産を控え身重の為万が一を恐れて登拝が出来ず、かといって羽黒山を無視するのは罰当たりなので、一向は遠い場所から遥拝し、弁慶1人を代参として参拝に向わせました。

ここだけの話を切り取ってみると、出羽三山(羽黒山修験)の信仰よりも熊野大社(熊野修験)の方が御利益があると説明しているように感じます。「義経記」が編纂された室町時代当時、当地域の信仰がどの様な状態だったのかは分かりませんが、その後は熊野修験者達が「義経記」をうまく利用し、出羽三山の信仰から熊野信仰へと転じさせたようで、周辺の集落の鎮守には熊野神社が目立って多く鎮座しています。特に金峯山(金峯神社)はその信仰の中心的な存在で金峯山、虚空蔵山、熊野長峰の三山が熊野三所権現に見立てられ別当である金峯山青竜寺は大きくな影響力がありました。

出羽三山・概要: 出羽三山:羽黒山五重塔出羽三山の創建は伝承によると崇峻天皇の皇子とされる蜂子皇子(能除太子)が推古元年(593)に開山したのが始まりと伝えられています。崇峻天皇5年(592)、天皇は儀式の最中に東漢駒により暗殺、一般的には蘇我馬子が暗躍したとされ別説では多くの貴族が絡んだ政変だったとも云われています。自分にも危機が迫る事を察した蜂子皇子は宮廷から脱出し、宮津の由良海岸を舟で出羽国を目指し北上し現在の山形県鶴岡市由良海岸に上陸し羽黒山を目指しました。羽黒山に入ると八咫烏(3本足の霊烏)の導きにより山頂に辿り着き、修行を重ねると羽黒権現が出現するに至り、さらに月山、湯殿山を随時開山したとされます。ただし、この様な由緒が確立したのは江戸時代に入ってからで、当初は古代人が素朴な感情から生まれた自然崇拝が始まりとされ、さらに、仏教思想と祖霊信仰が重なり、死者の霊は一端、出羽三山(羽黒山・月山)の山頂に留まり、成仏した後に天界に上るといった独特の宗教観が生まれています。出羽三山といっても、当初は羽黒山、月山、鳥海山がそれにあたり、その後、鳥海山の変わりに葉山、葉山の変わりに湯殿山と変遷し、時代時代の修験僧の勢力争いが窺えます。当初は月山神社が「伊氏波神」として高い神階を得て延長5年(927)に編纂された「延喜式神名帳」には名神大社の格式を得ていましたが、出羽三山:参道・石段次第に神仏習合し本地仏を共に祀り別当寺院が祭祀を司る仏教色の強い山として発展しました。地元の豪族である大宝寺氏やその後継である武藤氏とも結びつき、お互いの相互関係によって更なる信仰を深めしましたが、一方でそれらの豪族と敵対関係がある豪族(大名)からは攻撃目標の一つとなり戦国時代にはその兵火により多くの被害を出し一時衰微しています。江戸時代に入ると、羽黒山の別当だった天宥が出羽三山の再興を図る為に徳川家康の側近で幕府の重鎮だった天海大僧正に近づき、当時出羽三山全体が真言宗に近い宗教形態だったものを、天海大僧正に合わせて天台宗に改宗しようといました。湯殿山系の寺院は猛烈に反発しましたが、羽黒山と月山系の寺院の大部分が天台宗の改宗した為、幕府からおの庇護を得て出羽三山は「東国三十三ヶ国総鎮守」に定められ熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)と英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」の一つに数えられるまでになりました。江戸時代中期以降は庶民の行楽嗜好が高まり、全国で出羽三山の講が結成、多くの先導達の活躍により信者から物見遊山まで夥しい参拝者が出羽三山に訪れ、宿坊街も活気に満ち溢れていました。明治時代初頭に発令された神仏分離令と、その後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により、基本的に出羽三山は仏教色を一掃する事になり羽黒山は出羽神社、月山は月山神社、湯殿山は湯殿山神社に転じ、別当寺院の僧侶の多くは還俗して神官となり、支院、末寺は廃寺に追い込まれました。仏教色の強い堂宇は破却され、仏像や仏具も一部は他の寺院に移されましたが、多くは四散したとされます。それでも尚、境内には多くの神仏習合時代の建物が残され、縁のある社宝を所持しています(現在は出羽三山神社三神合祭殿で三社一緒に参拝する事が出来ます)。

出羽三山と「義経記」: 「義経記」の中では度々羽黒修験という形で記載されているものの、参拝したのは弁慶1人が代参という形のみで、当初から参拝する気が無かったように思われます。弁慶の参拝の様子も詳しく記されておらず、ただ「弁慶はあげなみ山にかゝりて、よかはへ參り會ふ」と表現されています。出羽三山の中でも特別何か資料的なものが残されている訳ではありませんが、現在羽黒山に鎮座する出羽三山神社に至る参道の「二の坂」が、余りの急坂で弁慶が奉納するはずだった油をこぼしたとの伝承から「弁慶の油こぼし」の異名を持っています。

奥州平泉への道・山形県での逃避経路

鼠ヶ関
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三瀬気比神社
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出羽三山
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清川
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白糸の滝
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会津の津
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亀割山
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瀬見温泉
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尿前の関
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鳴子温泉
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