清川(山形県庄内町)

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清川:概要

清川と「義経記」: 清川(山形県庄内町)源義経一行は大泉庄大梵字(鶴岡市大宝寺)を経て清川に到着、一方、出羽三山を1人で参拝を行った弁慶も清川に入り一行と落ち合い、宿泊先は五所の王子で現在の御諸皇子神社に比定されています。そこでは、境内で御神楽などが催され、家臣達と清川の住民達が思い思いに舞いを踊り親睦を計らい、次第に明るくなってきたそうです。「義経記」では清川は熊野大社の近くに流れる清流岩田川と比較し、羽黒権現の御手洗(心身を清水で清める場所)で月山の山頂から北の腰に流れ落ちる川である事を説明しています。

清川は後に舟形街道と呼ばれる街道の宿場町で、江戸時代には庄内藩の藩主酒井家の宿場町、最上川舟運の拠点、そして数多くの出羽三山の参拝者が利用しました。特に、清川宿からある程度上流からは最上川氾濫などで陸路が開削出来ず、舟での移動となりました。その為、清川宿は必然的に運行舟の発着場所となり、江戸時代前期には奥の細道での松尾芭蕉の上陸地になりました。庄内藩でも重要拠点として位置付けられ清川の関所は領内五関所に数えられ、鎮守である御諸皇子神社は篤く保護されました。

御諸皇子神社・概要: 御諸皇子神社御諸皇子神社の創建は不詳ですが、遥か昔、身分の高い皇子が当地に滞在し常楽(地名)で奉じられたので、住民達は皇子を哀れみ塚(王子塚)を設けて御霊を祀ったのが始まりと伝えられています。永承年間(1046〜1052年)には源頼義が前九年合戦の戦勝祈願を行ったとされ古くから知られた存在でした。江戸時代に入ると庄内藩主酒井家の崇敬社として庇護され寛文2年(1662)には社殿(庄内町指定文化財)を再建し、元禄13年(1700)には神楽殿の造営が行われています。これは清川が酒井家の参勤交代で利用する宿場町で、ここから舟で本合海まで向かう安全祈願や庄内藩領の境(入口)を守護する意味合いが強く、社殿の営繕費用は藩費で行われるなど信仰の対象となっています。又、古くから神仏習合し、現在でも当時は仁王門だったと思われる神社山門が現存し内部に庄内町指定文化財に指定されている仁王像(木造金剛力士像)が安置され当時の名残を強く残しています。又、社宝として源義経が奉納したと伝わる摩利支天の像、青葉笛、弁慶鎖鉢巻、弁慶の祈願文を所有し最上川舟運関係者から奉納された数多く絵馬が掲げられています。祭神:御諸別命。

清川での伝説: 清河八郎清川では義経一行を世話したのが当地の実力者であった斎藤家で、義経からその御礼として「鬼王丸」と呼ばれる刀を授かったと伝えられています。幕末、斎藤家からは斎藤元司を輩出、その後、清河八郎に改名し、当地域出身の代表的な維新志士として知られるようになりました。

清河八郎は当地の名士である斎藤家の出身で、幼少期には関所役人の畑田安右衛門に師事し、江戸に出て東条塾塾(東条一堂)や安積艮斎、昌平坂学問所などで勉学を積み、一方で千葉道場で剣を磨き免許皆伝の腕前となりました。このように文武両道の人物は稀な存在で、清河八郎が開いた清河塾には後に討幕運動で大きな働きを担う人材が数多く集まるようになりました。安政7年(1860)の桜田門外の変、以降は大きく倒幕・尊王攘夷の思想に傾倒し清河と塾生で構成された虎尾の会は度々行動を起し、幕府からも危険視されるようになり仲間の一部が捕縛され、清河自身も追われる身となりました。清河は各地を転々としながらも倒幕運動に明け暮れ、塾生の1人山岡鉄舟等を利用して幕府に浪士組が結成させ、その浪士組を乗っ取る作戦を実行しましたが、結果的にうまくいかず文久3年(1863)幕府の放った刺客により麻布一ノ橋で討ち取られました。清川では清河八郎の威徳を偲び清河神社を創建し祭神として祀られ、境内には記念館が設けられ数多くの資料が展示されています。

奥州平泉への道・山形県での逃避経路

鼠ヶ関
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三瀬気比神社
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出羽三山
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清川
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白糸の滝
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会津の津
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亀割山
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瀬見温泉
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尿前の関
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鳴子温泉
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