源義経の奥州平泉への道・山形県編

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源義経:概要

源義経と源頼朝の対立の経緯: 源義経は河内源氏の棟梁だった源義朝の九男で、源平合戦の折には異母兄弟である源頼朝に従い平家打倒の為に挙兵、逸早く京都を掌握した従兄弟である木曽義仲を排斥し、その後も平家に対して三草山の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで勝利し、元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで、事実上、源氏の天敵であった平家を滅亡に追い込む事に成功、捉えた平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に凱旋しようとしました。しかし、義経の鎌倉入りの許可が下りず郊外の満福寺で待機を命じされ、腰越状をしたため頼朝に敵意が無い事を示しましたが、結果的に京都へ戻る事を命じられました。何故、頼朝は義経に対して不信感を持ったのかは諸説ありますが概ね次ぎのような理由が挙げられます。

源頼朝が源義経に対して不審に思った理由
 @ 頼朝に許可無く朝廷から冠位を授かった事。
 A 軍艦である梶原景時の命令無視。
 B 増長による越権行為が目立ち、多くの東国武士から不信感を買う。
 C 安徳天皇や二位尼を自害に追い込む失態。
 D 三種の神器の奪還に失敗。
 E 軍功が大きき過ぎ頼朝の地位を脅かす存在。

当時の頼朝は義経だけでなく多くの同族を粛清し、自害や没落に追い込み結果的に源氏の衰退を招き、北条氏の台頭を許す事になりますが、義経自身も後世の印象とは異なり、軽率な行動が多く当時の微妙な政治状況を考慮すれば結果も随分と違っていたのかも知れません。特に、朝廷から冠位を授かる事は新たな武家政権を確立を画策する頼朝にとって許し難い愚行で、今後配下となる武士達にも示しが付かず、自分が与える冠位が何の保障や格式が無い状況が腹立たしく感じられたと思われます。その後、義経は頼朝に対して対立関係を深め、頼朝から授かった所領が没収、逆に朝廷からは伊予守の冠位が与えられています。さらに頼朝からの源行家追討命令を断った事で関係の修復が不可能となり、義経追討令が発令、さらに義経を見限った朝廷も頼朝に同調した事から義経は窮地に追い込まれました。鎌倉、朝廷を敵に廻した事で京都近辺の武士達も義経と敵対するようになり、一端九州に逃れ、頼朝とは一定の距離をとる旧平家に近い軍勢と近づこうとしましたが、暴風により乗っていた船が大破し、まとまった軍勢を失いました。その後は吉野や京都近辺に潜伏しましたが、同じく頼朝と敵対した源行家や源有綱、義経の家臣である佐藤忠信や伊勢義盛等も次々に討ち取られ、愛妾とされる静御前も捕縛された事で奥州平泉(岩手県平泉町)への逃避を決意します。

源義経の京都から奥州平泉への経路: 義経がどの様な経路を使って平泉まで無事到着したのかは資料等が無く不詳。想定される経路は@太平洋の海路を使って一気に平泉まで北上する説と、A東山道を使い列島を北上し縦断する説、B北陸道を海岸に沿いながら北上する説の大きく3つの説があります。@は当時の海運技術からするとかなり危険ですが、陸地の街道を使うよりも敵方に見つかる可能性は皆無で一番現実性がある経路と思われます。Aは鎌倉幕府の正式の歴史書である「吾妻鏡」に義経一行は伊勢国・美濃国を経て奥州に下ったとの噂が流れ調査が行われた事が記載されている事から噂が現実だったとも考えられます。Bは「義経記」で記載されている経路ですが、「義経記」自体室町時代初期に編纂された軍記物という評価の為、資料的な価値が低く、しかも、隠密裏に行われた奥州逃避行のはずが、派手な立ち回りや各地にわざと足取りが分かるような証拠を残すといった愚行を行うとは考えられず疑問視されています。

源義経の山形県での経路: 上記の理由から義経が山形県の浜辺から上陸し平泉に向かったとは考え辛いですが、あえてその史跡や伝承を訪ねて検証してみようと思います。


奥州平泉への道・山形県での逃避経路

鼠ヶ関
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三瀬気比神社
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出羽三山
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清川
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白糸の滝
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会津の津
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亀割山
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瀬見温泉
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尿前の関
右
鳴子温泉
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