最上郡金山町(歴史)概要: 金山町の歴史は古く、大野東人が東夷東征の際、比羅保許山(金山町周辺が有力)に陣を張った事が出羽遠征記事に記されています。当時の金山町は陸奥国府の多賀城(宮城県多賀城市)と出羽国府の秋田城(秋田市寺内)を結ぶ古街道として重要視され、天平3年(759)には平弋駅(宿駅)が設置されています。
中世は秋田県の雄勝郡と最上郡の郡境だった事で横手城(横手市)を本拠とする小野寺氏と最上氏の対立が激化し、金山町周辺では何度も戦端が開かれています。天正9年(1581)には金山城(楯山城)を築城、最上氏の家臣丹与惣左衛門が配され対小野寺氏の拠点の1つとして城郭や城下町を建設し、現在の金山町の原形となる町づくりを積極的に行います。
元和8年、最上家が改易になると金山城は廃城となりますが、羽州街道の宿場町としては変わりなく重要視され、峠を控えていた事もあり多くの旅人がここで宿を取ることになります。
特に秋田藩の佐竹氏や弘前藩の津軽氏など羽州街道を利用する大名の多くが金山町に本陣や脇本陣を置いた為大いに賑ったと言われています。
戊辰戦争では官軍となった秋田藩、新庄藩と白石城で調印された奥羽越列藩同盟の盟主仙台藩との攻防戦も金山町で行なわれ、双方に多くの犠牲者が出ました。
明治11年(1878)にはイギリスの紀行家イザベラバードが金山町を訪れ、著書である「日本奥地紀行」で非常にロマンチックな雰囲気の場所と評し絶賛しています。
現在の金山町は当時の宿場町の風情ある町並みが残り、景観の保全や整備などが行なわれ、周囲の建物についても「金山型住宅」と呼ばれる在来工法で建てられた住宅を奨励し『街並み(景観)づくり100年運動』を積極的に展開しています。
|