羽黒山五重塔(出羽三山)概要: 羽黒山五重塔の創建は承平年間(931〜938年)に平将門(高望王の3男平良将の子供、平将門の乱によって関東一円を掌握。)が建立したと伝えられています。
現在の五重塔は応安5年(1372)に当時の羽黒山別当職大宝寺政氏(大宝寺家12代当主、庄内地方の武将、土佐林家から別当職を譲り受けた。)が再建し、慶長13年(1608)に最上義光(最上家11代当主、山形藩初代藩主、出羽三山は敵対していた大宝寺氏と関係が深かかったものの、大宝寺氏が滅びると懐柔作の為に、堂宇の修復が行われました。)が改修したもので、塔高:24m、桁行3間、梁間3間、5層、宝形屋根、こけら葺、素木造、純和様で東北地方最古の塔建築で最も美しい層塔とされます。
四方の額は小野道風(平安時代の貴族・能書家、「三跡」の一人)が書いたものとされ「南:応身、東:法身、西:報身、北:化身」の額が揚げられています。
出羽三山は古くから神仏習合していたものの、仏教色が強く羽黒山と月山は天台宗の寺院として認識されていた為、明治初頭に発令された神仏分離令とその後吹き荒れた廃仏毀釈運動の中、出羽三山神社境内にある仏教色の強い多くの建物が破棄されました。
五重塔も本来、他の寺院に移転が決定していましたが、寺院側の金銭的都合がつかず結果的に移転、破却は免れ形式上は出羽三山神社の末社(千憑社)という扱いで内部の須弥壇には大国主命が勧請されました(明治以前は聖観音、軍荼利明王、妙見菩薩が祀られていましたが正善院黄金堂に移されています)。
羽黒山五重塔は数少ない室町時代初期の層塔建築の遺構として大変貴重な存在で昭和41年(1966)に国宝に指定されています。
又、羽黒山五重塔は法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町), 瑠璃光寺(山口県山口市香山町)と共に日本三大五重塔に数えられています。
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