真室川町: 鮭延城

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概要・歴史・観光・見所
鮭延城(真室川町)概要:  鮭延城は天文年間(1532〜1555年)に横手城(秋田県横手市)を中心に秋田県南部から最上地方まで影響力があった小野寺氏の家臣佐々木氏が築城しました。佐々木氏は元々、近江国(現在の滋賀県)の守護職で近江源氏の棟梁だった佐々木氏出身でしたが、一族の一部が家督争いに敗れ小野寺氏の客将として出羽国に下向したとされます。天文4年(1534)、小野寺氏の最上地方侵攻に伴い佐々木貞綱が当地に配され鮭延城を築城、地名に因み鮭延氏を名乗りました(年号等には諸説ありますが概ね天文年間から大永年間とされ、当初は岩花に館を構えたという説もあります)。鮭延城は小野寺氏の最上地方を抑える最大の拠点として重要視され鮭延氏もそれに応え武藤氏や最上氏と最上郡を廻り争いましたが天文9年(1581)に鮭延秀綱が3ヶ月に及ぶ籠城戦で最上氏に敗れると、領地安堵を条件に軍門に下り、その後は逆に最上氏の対小野寺氏の最前基地として重要視されます。鮭延秀綱は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦時に長谷堂城(山形市)の攻防戦に大功を上げ1万1千500石を領し、家臣ながら小大名並みの領主となります。長谷堂城の合戦様子を纏め上げた「永慶軍記」によると鮭延秀綱の活躍は敵将である上杉家執政の直江兼続にも聞き及び「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなしと、後日に直江が許より褒美をぞしたる」と言わしめたとされます。元和8年(1622)に最上氏がお家騒動で改易されると鮭延秀綱も連座し徳川家家臣土井家に預りの身となり、正保3年(1646)土井家の領する古河藩(茨城県古河市)で死去、その際、与えられていた石高を全て家臣に分け、家臣達は代々土井家に仕える事が出来たと伝えられています。変わって鮭延城には戸沢氏が最上地方の領する事になり一旦は入りますが鮭延城は山城で、領地内からみると北部に片寄っていた為、新たに新庄城を築き本城にすると、鮭延城は廃城となました(新庄藩の立藩)。鮭延城は中世の山城で頂上部に主郭と思われる平場があり、そこを中心に複数の曲輪や帯曲輪の跡が点在しています。要所には虎口、枡形、空堀、堀切、竪掘、内竪掘、土塁、井戸などが配され現在でもその一部を見る事が出来ます。又、鮭延城の周囲には鮭延氏歴代の菩提寺である正源寺や祈願所だったと思われる薬師神社など縁社寺が点在しています。



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