了広寺(山辺町)概要: 了広寺は山形県東村山郡山辺町大字山辺に境内を構えている真宗大谷派の寺院です。 了広寺の創建は不詳ですが、伝承によると文明年間(1469〜1486年)に当時の高楯城(了広寺背後の高台に築かれた中世の平山城)の城主武田信安によって開かれたのが始まりと伝えられています。武田信安は永享7年(1435)、甲斐守護職武田信昌の次男として生まれ、宝徳元年(1449)15歳の時に山形城の城主最上満家を頼り出羽国に赴き、当地に配された際に高楯城が築かれました(満家は嘉吉3年:1443年又は応永32年:1425年に死没している事から、跡を継いだ最上義春、又はその跡を継いだ最上義秋を頼ったとも考えられます。又、武田信昌の生誕年が文安4年:1447年である事から、甲斐武田家関係者である事は否定出来ないものの、信昌の子供である可能性は低いと思われます)。
信安は文明3年(1471)、芦名氏との戦いで最上方として参戦、敗北後に出家し本西法師を名乗ると、蓮如上人の元で修行を重ね、文明4年(1472)に戦没者の菩提を弔う為に草庵(了広寺)を設けれたと伝えられています。武田家は大名家から没落したものの、当地に土着し、武田家の家臣筋とされる安達家からは仏蘭西全権大使、国際司法裁判所長等を歴任した安達峰一郎博士を輩出し、了広寺はその菩提寺となっています。了広寺の境内には安達家の墓や安達峰一郎博士の顕彰碑が建立されています。宗派:真宗大谷派。
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