安久津八幡神社(高畠町)概要: 安久津八幡神社は山形県東置賜郡高畠町大字安久津に鎮座している神社です。案内板によると「安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡八幡をこの地に勧請したとされていますが、定かではありません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿弥陀仏信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられます。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代には「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千殊院をはじめ12坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263)「出羽国歴代庄八幡宮」で修行する能海、湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語っております。」とあります。
特に伊達氏が高畠城の城主時代に安久津八幡神社を篤く崇敬した事で、伊達政宗の片腕だった片倉小十郎が安久津八幡神社の神官出身という説もある程です(所説有り)。江戸時代に入ると米沢藩から庇護を受け、寛永7年(1630)には2代藩主上杉定勝が本殿を造営しています。
又、安久津八幡神社は古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院は廃寺、仏教色も一掃され社号を安久津八幡神社に改め、三重塔や鐘楼、石仏などが当時の名残を見せています(仏像の一部は、亀岡文殊大聖寺に移されています)。祭神:誉田別命。
安久津八幡神社の文化財: 現在の安久津八幡神社本殿は寛保3年(1743)の火災で焼失後の宝暦5年(1755)に8代藩主上杉重定が再建したもので三間社流造、茅葺、桁行3間、梁間2間、軒組は和洋平三斗、屋根は半円形に張り出し、鬼瓦付、江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から昭和30年(1955)に山形県指定有形文化財に指定されています。
安久津八幡神社三重塔は寛政2年(1790)に強風で倒壊後の寛政5年(1793)に着工し寛政9年(1797)に竣工したもので三間塔婆、宝形屋根、銅板葺(旧こけら葺→旧瓦葺)、高さ17m、総高さ20.5m、棟梁は伊達郡出身の山口右源次義高、神仏分離令以降は祭神大山祇神、置賜地方唯一の層塔建築の遺構として貴重な事から昭和30年(1955)に山形県指定重要文化財に指定されています。
安久津八幡神社神楽殿は室町時代後期に造営されたもので、宝形造、茅葺、桁行1間、梁間1間、現在でも毎年5月3日には倭舞、9月15日には延年の舞が奉納、室町時代の神楽殿建築の遺構として貴重な事から昭和30年(1955)に山形県指定重要文化財に指定されています。安久津延年は古式を伝える貴重な神事として平成17年(2005)に山形県指定無形民俗文化財に指定されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-高畠町教育委員会
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