高畠城(別名:鐘ヶ城・屋代城)概要: 高畠城は承安年間(1171〜1174)、樋爪季衡(奥州藤原氏3代藤原秀衡の従弟)によって築かれたのが始まりとされます。その後、高畠城は荒廃したと思われますが南朝暦元中2年、北朝暦至徳2年(1385)、伊達宗遠・政宗(儀山)父子が置賜地方に侵攻し、長く当地を支配した長井氏の最後の当主長井道広が滅ぼすと応永年間(1394年〜1428年)に高畠城を大改修し居城としました。政宗(儀山)は伊達家の中興の祖とされる人物で置賜地方を掌握すると広く盤図を広げ1405年に当地で没しています。高畠城は伊達家が梁川城(福島県伊達市)に移るまで本拠として利用され、本拠が移されると家臣である小梁川氏などが城主として配されています。
天正19年(1591)、奥州仕置きの不手際により伊達政宗は会津黒川城(福島県会津若松市)から米沢城、さらに岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封さら、南奥羽には豊臣秀吉の家臣蒲生氏郷が配され置賜地方も支配下に入ります。慶長3年(1598)、蒲生秀行は御家騒動により宇都宮城(栃木県宇都宮市)に移され、替わって春日山城(新潟県上越市)から五大老の1人上杉景勝が入封、置賜地方には上杉家執政の直江兼続が配され、米沢城に入り、高畠城には兼続の家臣である春日元忠が配されています。
慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家は西軍に与した為、景勝は米沢城に移封となり米沢藩を立藩、高畠城には兼続の弟である大国実頼が城主、元忠は城代という立場で引き続き当地の開発に尽力しています。慶長20年(1615)、一国一城令が執行されると廃城となり、以後、陣屋構えの御仮屋として引き続き当地方の行政、軍事の拠点として機能しましたが寛文4年(1664)、米沢藩は家督相続の不手際から30万石から15万石に石高を減らされた為、高畠城(御仮屋)周辺は天領支配となっています。
明和4年(1767)、明和事件に連座し織田家を相続した織田信浮は小幡藩(群馬県甘楽町)から高畠に移封となり高畠藩を立藩、高畠城の跡地を利用して陣屋を設けると藩庁と藩主居館が整備されます。高畠藩といっても領地の3/4は天童周辺にあった為、文政9年(1826)に陣屋が焼失した事を機に藩庁移転を願い出て天保元年(1830)に天童に移ると天童藩が立藩されています。嘉永元年(1848)に再び米沢藩領になると高畠陣屋跡には御仮屋が設けられ、明治2年(1869)の戊辰戦争で米沢藩が新政府軍に破れると、当地は新政府領となり御仮屋も廃されています。現在は建物の遺構などは無く水堀の一部が残されています。高畠城の城跡の水堀周辺が「高畑城堀跡」として昭和58年(1983)に高畠町指定史跡に指定されています。
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