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尾浦城(別名:大浦城・大山城)概要: 尾浦城は天文年間(1532〜1555年)に当時一帯を支配していた大宝寺晴時が築いたとされます。
当初、大宝寺氏は大宝寺城を居城にしていましたが、最上氏、上杉氏の台頭と家臣だった砂越氏などの不穏の動きから、平城だった大宝寺城より堅固の城郭の築城が必須となりました。
そのような中、天文元年(1533)、砂越城の城主、砂越氏維が反乱を起こし大宝寺城を急襲、落城は免れたものの、多くの建物が焼失する等、大きな被害を受けた為、大山の尾浦城に居城を移しました。
晴時の跡を継いだ大宝寺義増は出羽国平鹿・雄勝郡の小野寺氏や、越後国岩船郡の本庄繁長の協力を得て、永禄8年(1565)には最上郡と村山郡にも進出を果たしました。
しかし、最上家の反抗により、撤退を余儀なくされ、さらに、永禄11年(1568)に本庄繁長が上杉謙信に対して謀反を企てた事から、上杉軍は同盟者である大宝寺氏を撃つ為、庄内地方に侵攻、大軍に屈した義増は降伏しています。
義増の跡をついだ大宝寺義氏は織田信長の後ろ盾を得て、屋形号を掲げるなど台頭、庄内地方をほぼ制圧し、由利地方や最上地方への遠征も積極的に行っています。
しかし、天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が横死すると、後ろ盾を失った義氏に対し、遠征などで疲弊していた国人領主達の不満が高まりました。
天正11年(1583)、従属していた砂越氏、来次氏が山形城の城主である最上義光の画策により次々と謀反を起こしています。
義氏は重臣の前森蔵人義長に大宝寺軍を任せ、砂越、来次、両家に対して懲罰を加えようとしましたが、前森蔵人は突如、懲罰軍を率いて大浦城を取り囲んだ為、自害に追い込まれています。
後を継いだ弟の大宝寺義興は丸岡城の城主、藤島城の城主を歴任し、家督を継いだ事を受け尾浦城に入っています。
義興は上杉氏の家臣本庄繁長の次男である義勝を養子として迎える事で上杉氏との従属関係を深め、天正13年(1585)に再び最上領に侵攻、最上方の清水城を攻め立てています。
しかし、天正14年(1586)に領内で最上義光に内応した東禅寺義長が再び謀反、義興は兵を引き返し、東禅寺城を攻めたものの、天正15年(1587)に最上軍が援軍として庄内に侵攻した為、形成が逆転しています。
義興は奮戦したものの、尾浦城は落城、自刃に追い込まれ、養子の義勝は越後国と出羽国の国境付近にある小国城に落ち延びていきました。
庄内地方は一時、最上領となり、最上義光は家臣である中山玄蕃頭朝正を尾浦城の城代として配しています。
天正16年(1588)、義勝は実の父親である本庄繁長へ援軍を要請、さらに上杉景勝の支援を受け、大軍を持って再度庄内に侵攻し、尾浦城を目指しました。
東禅寺義長は尾浦城と大宝寺城の中間に位置する要害の地である十五里ケ原に布陣し、弟である東禅寺右馬頭勝正を総大将、最上方の援軍として草苅虎之助が迎え撃ちましたが、義勝、繁長父子が勝利し尾浦城も奪還しています。
しかし、天正18年(1590)、奥州仕置きでの検地の最中、庄内地方では反発する旧国人領主達や農民達が各地で一揆を起こし、特に藤島一揆は大規模で繁長、義勝父子では対処が出来ず、上杉家執政の直江兼続が鎮圧しました。
天正19年(1581)、繁長、義勝父子はその責任として領地を没収され、本庄繁長は大和、大宝寺義勝は川中島へ流罪となり、庄内地方は主家である上杉景勝の直接支配となりました。
尾浦城には、天正17年(1589)に出羽国庄内三郡の代官として赴任していた下治右衛門秀久が400石で配されたとも云われています。
一方、慶長3年(1598)に景勝が会津に移封となると、尾浦城には小国城代だった松本助義が城代として抜擢され3千2百石で配されています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の合戦で上杉家は西軍に与した為、東軍に与した最上家領に侵攻、下治右衛門秀久は最上方の城柵を次々と攻略し、戦略的拠点となった谷地城を攻め落としています。
しかし、関ヶ原での本戦で西軍が敗れると、上杉本隊は会津領に引き上げた為、秀久は谷地城で孤立を余儀なくされ、結果的に最上方に下り、最上軍庄内侵攻の案内役に抜擢されています。
同年、尾浦城には東軍に与した最上義光が扇動する一揆軍に急襲され、奮戦空しく尾浦城は落城、城代だった松本助義も嫡男の猪兵衛と共に討死しています。
翌年の慶長6年(1601)には最上義光によって庄内地方全域が占拠され、一方、上杉景勝は米沢藩に大減封になった為、山形藩最上家の支配が確定しています。
義光は庄内侵攻で功績を挙げた下治右衛門秀久を尾浦城に1万2千石で配し、大改修すると慶長8年(1603)に大山城と名称を改称しています。
慶長19年(1614)に跡を継いだ下治秀実が、一栗高春の謀反により亀ケ崎城の城主である志村光惟と共に暗殺されると、義光の6男である大山光隆が2万7千石で配されました。
元和元年(1615)の一国一城令により山上の城郭部を廃し、主要部が麓に移されると陣屋構えに改変されたと思われます。
元和8年(1622)、最上家中は光隆の兄である山野辺義忠派と、甥である最上義俊派が激しく対立、この騒動を重く見た幕府は最上義俊を改易処分としています。
光隆は両派に与せず中立だったものの、同じ一族として連座し酒井忠世に預かりの身となった為、大山城も廃城となっています。
同年に庄内地方に入部した酒井忠勝は庄内藩を立藩、正保4年(1647)に忠勝が死去すると、七男である酒井備中守忠解に大山三ヶ村・大山郷八ヶ村・大山十二ヶ村、合計1万石が分与され大山藩を立藩しています。
陣屋構えの備中守の居館は旧大山城の三之丸西側に設けられましたが、寛文8年(1668)に忠解が死去すると、嗣子が居なかった事から大山藩は廃藩となり、居館も廃されています。
その後、旧大山藩領は天領となり、旧大山城の三之丸の一画には幕府の代官陣屋が設けられ、その跡地には延宝年間(1673〜1680年)に旧大山城内から陣屋敷地内に遷座した稲荷神社が鎮座しています。
尾浦城は標高273.8mの高館山の丘陵の先端、標高50m程の地に築かれた、山城と平山城の中間位の城で、背後の日本海には良港である加茂湊、前面には外堀と見立てた内川が流れていました。
現在、三吉神社が鎮座している平場が本丸で、麓に遷るまでは大宝寺氏の居館があったとされ、その西側の副郭には隠居所や穀物蔵が配されていました。
本丸と隠居所のある郭の間には深い空堀で分断され、尾根や周囲には多くの小郭で囲われていました。
東麓と南麓には「御堀」と呼ばれる内堀が設けられ、東麓には御殿のある二之丸、その外側には家中屋敷や馬場がある三之丸が配され、「馬場出道」、「桜馬場」、「的場道」、「左京殿橋」、「殿町」、「御徒町」、「御中間町」、「御足軽町」などの地名が残っていたとされます。
現在は大山公園として整備され、郭の形状や堀切、土塁の一部の遺構を見る事が出来ます。
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