山形城

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概要・歴史・観光・見所
山形城(霞城・霞ヶ城・吉字城)概要: 山形城は延文元年(1356)に最上氏の祖である斯波兼頼が羽州探題としてこの地に赴任し延文2年(1357)居館を築いたのが始まりとされます。斯波は足利氏の分家にあたる名門で、南北朝時代には北朝側の有力大名として周囲に大きな影響力を持ち、一族や有力家臣を最上郡や村山郡一帯に配置し「最上四十八館」とも呼ばれる強力な布陣を敷きました。戦国時代に入るとそれぞれが国人領主化し独立する気運が高まり、永正11年(1514)に米沢城の城主伊達稙宗による最上領侵攻により長谷堂城が落城し、最上義定(最上9代宗家)が敗退すると、影響力が一気に後退し、領内北部では天童城の城主、天童氏を盟主に「最上八楯」を結成し公然と最上家と対立するようになります。

天文11年(1542)、伊達家の内部対立である「天文の乱」を利用し最上義守(最上10代宗家)が一定程度勢力を巻き返しますが、今度は嫡男義光(最上11代宗家)と対立し度々争乱となり、周囲の大名からも干渉を受けさらなる弱体化を招きます。義光が宗家に就任すると懸案だった天童氏を滅ぼし、さらには白鳥氏や寒河江氏を下した事で旧領を回復し、庄内地方や雄勝地方へも積極的に軍を送り出しました。天正18年(1590)の小田原の役でも参陣し豊臣秀吉から24万石が安堵され出羽国最大の石高を誇りました。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際は東軍に与し、西軍に与した上杉勢と戦い、領土の大部分は制圧され、本城の山形城の他、長谷堂城と上山城のみとなりましたが、長谷堂城の奮戦により長期戦に持ち込んだ事で、その間に本戦である関が原で西軍が敗れ、敗戦を知った上杉勢が自領に引き揚げました。最上軍を余勢をかって庄内地方、雄勝地方に兵を進め、戦後に現在の山形県の大部分と、秋田県の雄勝地方(後に由利地方に変換)を領する57万石の大大名となり山形藩を立藩しました。

山形城も整備を進め、本丸は東西144m、南北133m、二の丸は東西433m、南北474m、三の丸は東西1617m、南北1553m、三の丸までの広さは235万m2という当時の城郭の中では全国第5位という規模となりました。天守閣は築かれませんでしたが、本丸には2重櫓が3基、二の丸には三重櫓一基、二重櫓五基、三の丸には城門を11箇所設けるなど多くの建物がありました。

元和8年(1622)、最上家が御家騒動の為改易となると譜代大名である鳥居忠政が磐城平藩(福島県いわき市)から24万石で入り、伊達氏(仙台藩)、佐竹氏(久保田藩)、上杉氏(米沢藩)などの東国有力大名への抑えとする為、山形城もさらに重要視されるようになります。忠政は山形城を大改修し、特に河川の付け替え工事や、街道の路線変更、光禅寺光明寺など最上家縁の寺院を要地から一掃した事で、城下町は大きく刷新されました。その後、時勢が安定した事もあり、山形城の重要性が薄れ、石高の低い大名が赴任するようになります(最上義光→最上家親→最上義俊→鳥居忠政→鳥居忠恒→保科正之→松平直基→松平忠弘→奥平昌能→奥平昌章→堀田正仲→松平直矩→松平忠弘→松平忠雅→堀田正虎→堀田正春→堀田正亮→松平乗祐→秋元凉朝→秋元永朝→秋元久朝→秋元志朝→水野忠精→水野忠弘)。建物の規模はその都度縮小され、幕末期には水野氏5万石となった時は城を維持するのにかなり苦労したようです。

明治維新後は廃城となり大手南門が、万松寺山門として移築され、本丸御殿の一部が宝光院の本堂に使用されています(宝光院本堂は山形県指定有形文化財に指定されています)。城郭跡は歩兵第32連隊の兵営地となった為、本丸内堀は埋め立てられ、旧状を残していません。現在は霞城公園として整備され昭和61年(1986)に国指定史跡に指定され平成18年(2006)には日本100名城に選定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-山形市教育委員会
・ 現地案内板-山形県教育委員会・山形市教育委員会

山形城:堀・石垣・銅像・写真

最上義光銅像
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二ノ丸東大手門 水掘 東大手門 本丸石垣・空掘
水掘 多門櫓 東大手門 本丸・一文字門
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