新徴組本部(湯田川温泉)概要: 新徴組は文久3年(1863)に清河八郎によって結成された浪士組で幕末では庄内藩と共に江戸市中の警固の一端を担っていました。当初は浪士組と称し、清河八郎が将軍家上洛の警護に託けて京都で尊皇攘夷運動をする画策でしたが、後に新撰組となる近藤勇や芹沢鴨などがその計画に反対し離脱した為に頓挫します。一方、幕府も清河の不審行動を察知して急遽江戸に帰還命令を出し、江戸に戻った清河を幕臣の1人佐々木只三郎に命じて暗殺させます。これにより浪士組は幕府の預かりとなり「新徴組」に名称が改められ、さらに、有力譜代大名である庄内藩酒井家に属するようになりました。その後、江戸の治安が急速に悪化した事を受け、庄内藩は江戸市中警護を担うようになり、新徴組がその任にあたり「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」とまで歌われるようになりました。慶応4年(1868)に戊辰戦争が激化すると江戸にいた庄内藩士は領内に引き上げ、それに伴って新徴組も庄内に随行しました。新徴組は湯田川温泉の隼人旅館を本部を置き温泉宿を中心に37軒に仮分宿し庄内藩と共に新政府軍と各地で転戦しています。湯田川で死去した新徴組は、長福寺の境内に埋葬されています。
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