湯殿山神社: 大日坊

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大日坊

大日坊(湯殿山神社別当寺院)
大日坊(山形県鶴岡市)概要: 湯殿山総本寺大日坊は平安時代初期の大同2年(807)に当時の高僧として知られた弘法大師空海が開いた湯殿山神社の別当寺院として空海の弟子である渡海が開基となって寺観を整えた寺院とされます。湯殿山神社は神聖視された事で古くから女人禁制が敷かれ、女性の信者の便宜を図る為に湯殿山神社の祭神である湯殿山大権現を大日坊に勧請し、大日坊を参拝する事で湯殿山神社と同等の御利益があるとして信仰の対象となりました。湯殿山神社には別当寺院が4カ寺ありましたが、大日坊だけが山号で「湯殿山」を掲げ湯殿山総本寺としての格式がありました。大日坊の境内は出羽三山の湯殿山神社の登拝口に位置する事から登拝者の宿坊だけでなく、修験僧の僧坊や修行道場、執事本坊、講堂なども設けられ大きく繁栄しました。江戸時代初期に3代将軍の座を巡り徳川家光と弟の徳川忠長の間に家督争いが幕府を2分する程に激化すると、家光の乳母である春日局が2代将軍徳川秀忠の病気平癒の祈願を名目で大日坊に参拝し、その実、家光に家督を継がせる為の祈願を行ったと伝えられています(徳川忠長の方は一大名に転落、その後も執拗に家光から排斥され、ささいな事から改易の上、高崎藩に預かりの身となり、結果的に切腹して果てています。さらに霊廟には鎖が巻かれ死後も罪が許されなかったそうです)。念願成就し見事家光が3代将軍に就任すると徳川家の祈願所として篤く庇護され、寛永14年(1637)に家光が重病になると、病気平癒の祈願の為、旗本の久米助右エ門が代参し、寛永17年(1640)には春日局の寄進によって桁行3間、梁間3間の御堂が造営、寛永18年(1641)には御堂に本尊となる大日如来を奉納しています。現在でも大日坊には奥の院大日堂棟札や祈願文を入れた文状箱、家康公位牌、家光公所持刀など徳川家縁の寺宝を所有しています。明治時代に入ると神社と寺院が強制的に分離される事になり、湯殿山神社と大日坊はそれぞれが独立する事になり、さらに廃部希釈運動に巻き込まれ多くの堂宇が焼き討ちにより焼失しています。

その中でも大日坊仁王門(山形県指定文化財)は数少ない往時の姿を留める建物で、入母屋、茅葺、三間一戸、八脚単層門、茅葺屋根が古刹の雰囲気を醸し出し異彩を放っています。

山形県の茅葺屋根建築
大日坊(湯殿山神社別当寺院)安久津八幡神社慈恩寺庄内屋(楢下宿)
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