旧遠藤家住宅(湯殿山神社)概要: 旧遠藤家住宅が位置する田麦俣集落は六十里越街道の宿場的な存在でした。六十里越街道は庄内藩の本城である鶴ヶ岡城(山形県鶴岡市)の城下町と山形藩の本城である山形城(山形県山形市)の城下町を結ぶ街道で、出羽国が成立した和銅5年(712)、又は湯殿山神社が創建されたという大同2年(807)に開削されたとも云われるています。
当時は日本海の海産物や塩などが出羽国の内陸部に運ばれる主要経路の1つとして重要視され、戦国時代には庄内の大宝寺氏(武藤氏)が最上氏の画策により窮地に立たされると寒河江氏が救援の為に兵を送り、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際には西軍に与した上杉軍が東軍に与した最上領に侵攻にも利用されました。
江戸時代に幕府から定められた正式な街道では無かった為、宿場町や本陣、脇本陣、旅籠などは設けられませんでしたが、松根、大網、田麦俣、志津、本道寺、寒河江などの集落は宿駅な役割を持ち(大綱と本道寺は宿坊町)、各民家は半農半宿的な生業でした(ただし、庄内藩の参勤交代の経路である舟形街道が豪雪の為通行が不能となった天保6年(1835)だけは六十里越街道を経路し大日坊(湯殿山神社別当寺院)が仮本陣として利用されています)。
特に六十里越街道は出羽三山の一翼を担った湯殿山神社への登拝口にあたる為、往時は数多くの参拝者が訪れており遠藤家住宅も宿所の1つとして機能していたと思われます。又、田麦俣集落には鶴岡側と山形側の両方の番所が置かれ、庄内藩の木材を切り出す際には藩士が派遣され監督に従事した集落でもあります。
明治時代の神仏分離令や修験道廃止令により湯殿山神社の参拝者が激減し、近代交通網が整備されると六十里越街道を利用する人も激減し田麦俣集落も一山村集落となりました(冬季でも参拝が容易になるように、湯殿山神社と月山神社、出羽神社を一緒に祭る出羽三山神社となっています)。元々生産性の高い土地柄では無かった為、養蚕業が盛んになり、田麦俣多層民家と呼ばれる独特な形状を持つ建築様式が生れました。旧遠藤家住宅は江戸時代後期の文化文政年間に建てられたもので、数少ない田麦俣多層民家の遺構として貴重な存在で山形県指定文化財に指定されています(旧遠藤家住宅は田麦俣集落でも数少ない茅葺屋根の建物で、往時は茅葺集落として優れた景観だったと思われます)。
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