山寺立石寺 |
山寺立石寺は平安時代中期に当時の天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁によって開かれた寺院で、円仁の弟子達が東北地方の天台宗布教の拠点として整備発展させました。中世に入ると、山寺立石寺は歴代山形城の城主となった最上氏から篤く信仰され寺坊300余坊、1千余名を擁する大寺院となりました。戦国時代には最上氏と天童氏との争いに巻き込まれ境内が荒廃しましたが、その後は最上氏の尽力により再興が図られています。江戸時代初期に最上氏が改易になると、新たな山形藩主となった鳥居氏と対立しましたが、その後は歴代山形藩主や幕府から庇護され再び繁栄しました。又、松尾芭蕉の奥の細道の舞台でもあります。※三重塔は小塔です。
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慈恩寺 |
慈恩寺は奈良時代に名僧として知られる行基菩薩が巡錫で当地に錫を留めた際、仏を安置するに相応しい土地と感じ取り、聖武天皇の許しを得て婆羅門僧正により創建された寺院です。平安時代後期になると奥州藤原氏の庇護を得て堂宇の造営と境内の整備が行われ、慈恩寺は当時の出羽三山の一山だった葉山修験と関係を深めた事で大きく信仰を広めました。中世には寒河江の地頭である大江氏が篤く慈恩寺を信仰した為、過大な庇護を受けましたが、戦国時代に大江氏は衰退した為、慈恩寺も衰微しました。その後は最上氏が庇護し、最上氏が改易になると幕府から2812石余の寺領が安堵されています。現在でも境内には三重塔など古建築が建ち並んでいます。
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安久津八幡神社 |
安久津八幡神社は平安時代中期に当時の天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁の発願によって造営された阿弥陀堂を前身としています。平安時代後期に源義家が戦勝祈願した後に八幡神を勧請し、神仏習合の形態になりました。中世は安久津八幡神社の境内に程近い高畠城の城主となった伊達氏により庇護され最盛期には12坊を擁する大社(大寺院)として境内には多くの建物が建てられました。明治時代に入ると神仏分離令により仏像などが近隣にある亀岡文殊大聖寺に移されましたが、寺院建築である三重塔は奇跡的に残されました。安久津八幡神社は本殿、拝殿、神楽殿が何れも茅葺屋根の古建築で、境内は荘厳な雰囲気が感じられます。
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