備 考− | 月山は出羽三山の一翼の担う霊山で、古くは祖霊信仰が盛んで庄内地方では死んだら出羽三山に御霊が集まると信じられてきました。社伝によると推古天皇元年(593)に中央での政争から逃れる為、崇峻天皇の第3皇子とされる蜂子皇子が庄内に逃れ羽黒山を開山した後に月山で修行し開山したと伝えられています。ただし、大和朝廷が庄内地方に進出したのは大化4年(648)に現在の新潟県村上市付近に磐舟柵が設けられ、ここを拠点として出羽国を平定、開発した事から社伝として伝わる年代では蜂子皇子のような身分の高い人物が月山を登拝し開山するのはかなり難しく、実際は出羽郡が成立した和銅元年(708)以後、8世紀に入ってから創建されたようです。記録的な初見は平安時代に書かれた法制書「新抄格勅符抄」で、それによると宝亀4年(773)に月山神に神封2戸が与えられた事が記載されおり、少なくともこれ以前から月山神社が成立していた事が窺えます。格式も高く、平安時代に成立した「日本三代実録」によると貞観6年(864)2月5日に従三位、貞観18年(876)8月2日に正三位、元慶2年(878)8月4日に勲四等、元慶4年(880)2月27日に従二位に列し、平安時代中期に成立した延喜式神名帳では格式の高い名神大社として列記され月山神の祭祀料として2千束が朝廷から奉納されました。記録によると当時の月山神は飽海郡に鎮座している事から、月山山麓の出羽国府に近い位置に境内を構えていたとされ、山頂を御神体とする遥拝所、祭祀場のような存在だったのかも知れません。平安時代後期になると修験道と神仏習合し、次第に月山全体が修行場として開発され信仰も広がりました。室町時代になると出羽三山全体が一大勢力を形成した為、味方に付ける為に国人領主である武藤家が取り込みを画策し、別当に武藤家一族を任命させました。戦国時代に入ると最上家の庄内侵攻の兵火により境内を荒らされ荒廃しますが、江戸時代に入ると逆に最上家が庇護し堂宇の修復などが行われ、最上家が改易の後は歴代庄内藩主酒井家の庇護となります。江戸時代中期以降になると一般庶民が行楽志向に目覚めると、全国に出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の講中が組織され、大勢の登拝者が月山を目指し、門前町(羽黒町手向集落)は活況を呈しました。明治時代の神仏分離令を受け入れた為、大正3年(1914)に官幣大社に列格したものの多くの堂宇が壊され、仏像、仏具も四散しました。 |