備 考− | 出羽神社は推古元年(593)に崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が中央の政争で暗殺の恐れを察し出羽国に逃れ、八咫烏と思われる3本足の霊鳥に導かれ羽黒山に登拝、霊地と悟り激しい修行を重ねると羽黒権現が出現し、祀るようになった事が創建とされます。蜂子皇子は別当寺院となる寂光寺も創建し祭神を羽黒権現(伊デ波神)、本地仏を正観世音菩薩とする羽黒山修験の祖型を形成します。平安時代中期に成立した延喜式神名帳に式内社(小社)として記載されている出羽国・田川郡に鎮座していた「伊弖波神社」は出羽神社の事とされ古くから格式の高い神社だった事が窺えます。古くから神仏習合し修験道場として全国から数多くの修験僧が集まり修行を重ね名僧を輩出し寺運も隆盛し、中世は長く当地を支配した武藤氏(大宝寺氏)が政教一体を画策し、羽黒山別当に一族を送り込み長吏も武藤氏の家臣が務めました。戦国時代に入ると最上家の庄内侵攻により武藤氏は没落し、境内も兵火により大きな被害を受け衰微しましたが江戸時代に入ると、最上家が庄内地方を治めるにあたり懐柔制作が行われ、堂宇の改修や整備が行われました。当時の別当だった天宥法印は出羽三山の再興にあたり、幕府から庇護を受ける事を画策し、幕府の重鎮である天台宗の高僧、天海大僧正に師事する事で、羽黒山と月山を真言宗から天台宗に改宗し、寺領1千5百石が安堵されました(湯殿山は真言宗を維持し独自路線を歩みました)。江戸時代中期以降になると全国に羽黒山信仰が広がり、民衆の行楽志向も高まり、多くの信者が参拝に訪れ、大きく繁栄し「東国三十三ヶ国総鎮守」とも呼ばれ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称されました。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により多くの寺院、支院、坊などは廃寺に追い込まれ、堂宇は破棄、仏像、仏具は四散しました。結果的に社号を「出羽神社」に改めて国幣小社に列しています。 |