山寺立石寺:山形県山形市

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【 概 要 】−「山寺」として知られる宝珠山立石寺は平安時代の貞観2年(860)に清和天皇の勅願により高僧として知られる慈覚大師円仁によって開かれたと伝わる寺院です。ただし、慈覚大師円仁が東国に巡錫で訪れたのは天長6年(829)から天長9年(832)である事から、この間に何らかな宗教的な施設が設けられ貞観2年(860)に弟子達が寺観を整え慈覚大師円仁を勧請開山したとも考えられます。2世となった安慧(最澄、円仁に師事)も承和11年(844)に出羽国の講師、貞観6年(864)に天台座主に就任した名僧で、不滅の法灯を分けられるなど創建当初から天台宗の大本山である比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)と関係が深かった事が窺えます。その後も円仁の教えを請た心能や実玄が東国の天台宗の布教や宝珠山立石寺の発展に尽力し大きく発展しました。貞観6年(864)に円仁が死去、宝珠山立石寺では円仁は当寺の入定窟で入定したとされ、一方、比叡山延暦寺では延暦寺で死去し棺桶に入れた遺骸が突然消えた事から立石寺に飛び立ったのではないかとの伝承が伝えられています(立石寺の入定窟を発掘調査すると複数の人骨と円仁を模したと思われる頭部の木像が発見されています)。鎌倉時代に入ると幕府の命により関東御祈祷所となり、室町時代には羽州探題に就任した斯波兼頼が庇護し、その後は斯波氏(山形城の城主)の後裔である最上氏が代々篤く帰依しました。戦国時代の兵火により一時境内が荒廃しますが、その後も最上家の庇護の下、再興され堂宇も随時造営され境内を整備しました。元和8年(1622)に最上家の改易になると、新たに山形藩主となった鳥居家とは軋轢が生じ、当時の住職である円海は藩主鳥居忠政を呪詛させたとの伝承が残っており、2代藩主鳥居忠恒は恐れおののき篤く庇護するようになったとも云われています。又、幕府からは朱印地2千8百石が安堵され江戸時代を通して名刹としての格式を維持しました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が当時想定していた「奥の細道」の経路を大きく変更し態々宝珠山立石寺に参拝し、代表作の1つ「静かさや 岩に染み入る 蝉の声」の句を残しています。三重塔は小規模ながら大変貴重な建物とされ国指定重要文化財に指定されています。

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