山寺立石寺(門前町)・町並み

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山寺立石寺・町並み
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【山寺立石寺】宝珠山立石寺(通称:山寺)は当寺に伝わる伝承によると、貞観2年(862)に清和天皇(第56代天皇・在位:天安2年:858年〜貞観18年:876年)の勅願により平安時代の天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁(延暦13年:794年〜貞観6年:864年)により創建され、その際、本寺となる比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)から「不滅の法灯(法灯・香・写経行)」を分けられたと伝えられています。ただし、慈覚大師円仁が東北地方を巡錫した時期は天長6年(829)から天長9年(832)の事なので、実際に円仁が開山者だったのかは不詳で、円仁の高弟で立石寺の開祖として位置付けられている安慧が事実上創建し、円仁を勧請開山したとも考えられます。さらに、山寺立石寺を東国の天台宗の一大拠点に位置付ける為に、境内には慈覚大師円仁の遺体が収められているという入定窟があります。寺伝を信じれば、慈覚大師円仁が死没後に遺骸が立石寺に遷されたという事になりますが、死没地である比叡山延暦寺では円仁の遺体は紫雲に乗り姿を消したとの伝承も残されており興味深いところです。実際に調査すると円仁を模したと思われる頭部の木像と5体の遺骸が発見され、その内1体が首が無かった事から、その1体が円仁のものではないかとする説もあります。

南北朝時代の延文元年(1356)に後の最上家の祖となった斯波兼頼が領主(山形城の城主)として当地に赴任すると、歴代斯波家、その後裔の最上家が篤く帰依し、寺領の寄進や堂宇の造営などを行った結果、最盛期には寺坊300余坊、修行僧1千余名を擁する大寺院となっています。戦国時代の大永元年(1521)には最上家と天童氏との対立による争乱の兵火により多くの堂宇が焼失した際にも最上義守の生母である春還芳公尼が再興に尽力し、山形藩初代藩主となった最上義光は寺領1千3百石を安堵し、境内には義光の霊廟も建立されています。元和8年(1622)に最上家が改易となり、新たに山形藩主となった鳥居忠政とは対立を招き、忠政は立石寺の寺領内にある山林を無許可で伐採し居城である山形城の修築に利用するなど圧力を加えた為、当時の住職は呪詛により忠政を呪い殺したとの噂が立つ程でした。後を継いだ忠恒の代には和解に至り、幕府からは寺領2千8百石が安堵されるなど引き続き繁栄が続きました。

元禄2年(1689)5月27日、松尾芭蕉は尾花沢の清風などの勧めにより朝早くに尾花沢を出立し、夕方に立石寺の門前町に到着、宿坊と思われる「預り坊」に荷物を置いて当日のうちに立石寺の参拝を終え「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」の句を残しています。当時の立石寺の門前の登山口には「信敬坊」、「徳善坊」の2つの宿坊があったとされ、特に「徳善坊」は身分の高い人物が利用する格式の高いものだったそうです。現在の門前町は御土産屋や参拝者相手のする食堂などが軒を連ねています。

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