大石田町(川湊町)・町並み

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大石田・町並み
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【大石田町・川湊町】大石田町が川湊町として整備されたのは天正8年(1580)、当時の山形城(山形県山形市)の城主最上義光の命によるもので、さらに、天正9年(1581)には、上流部の難所の川底を掘削して安定して舟運船が運航出来るように改修工事が行われています。しかし、上流は難所である事には変わらず、大石田までは大型船で乗り着け、ここから小型船に荷物を積み替え各地に運ばれていった事から、大石田の川湊は大きく栄える要因の1つになりました。町割の際には最上川に並行するように、町の主要道、河岸道の大きな2本の道を中心に、それを結ぶ荷揚げ用の道が随所に設け、各敷地は短冊状に敷地割されました。町の中心地には問屋、川端地区には船大工、町の両端には舟運関係者の居住区があり、舟運に関係が深い社寺仏閣(大石山水路院乗舩寺・船守神社・金刀比羅神社・船橋神社など)が勧請され信仰の対象とさせました。元和8年(1622)に最上家が改易になると、新庄藩(藩庁:新庄城)領となりましたが藩主戸沢家は山形藩主鳥居家に取入る事で、石高が加増された経緯から、要衝の地である大石田と、日本三大銀山に数えられる延沢銀山(現在の銀山温泉)を鳥居家に引渡し、同石高の分の領地と引き換えています。その鳥居氏も寛永5年(1628)に改易になると幕府直轄地(天領)となり寛政4年(1792)には川船役所が設置されています。

寛文12年(1672)、河村瑞賢により日本海を利用した西廻航路を開削すると、最上川流域や太平洋側の伊達領の年貢米や特産物が最上川舟運によって酒田港まで運ばれ、そこで北前船に積み替えられ、京都や大坂に運ばれる経路が確立しました(逆に下り船は日本海の海産物や塩などが山形の内陸部に運ばれました)。大石田は最上川舟運の最大の拠点として位置付けられ、盛期には酒田船250隻、大石田船290隻、年間24万俵の米俵が取引され大きく発展しました。舟運の発展により多くの豪商を輩出する一方、利権を巡り、度々問題や軋轢が発生し制度の改変などが行われています。舟運は物資だけでなく、人の運搬にも利用され元禄2年(1689)5月28日の山寺立石寺を出立した松尾芭蕉と河合曾良一行は大石田の高野一栄宅に宿泊し、翌5月29日には大石田の門弟などと句会を開き、5月30日には「さみだれを」を製作し「さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川」の句を残しています。又、江戸時代中期以降、一般庶民にも行楽嗜好が高まると出羽三山への登拝が盛んになり、参拝の経路となった舟形街道が一部陸路が無い区間があった為、最上川を船で下り清川宿から再び陸路で出羽三山に向った事から、大石田から乗船する参拝者が急激に増えています。明治時代に入り、近代交通網が整備されると次第に舟運も利用されなくなり、大石田の優位性も失われました。現在の大石田には古い町屋や土蔵が少ないながらも残され、神社仏閣には舟運業を営んでいた豪商などが奉納した船絵馬などが掲げられ往時の繁栄の名残が感じられます。

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