大石田町(歴史)概要: 大石田町は古来より最上川舟運が盛んな場所で、 室町時代に大石田河岸が始まると利便性のよさから舟運の中枢となっていきます。大石田河岸上流には最上川三難所と呼ばれる「碁点」、「隼」、「三ヶ瀬」が控えていた為、多くの舟は立ち往生や沈没、破損といた被害を受け、大型の舟はここで荷下し小型の舟に乗せかえるか、陸路によって山形県内陸部に物資を運びました。
又、仙台藩では大きく海運で回るより陸路で奥羽山脈を越えた方が安全な場合も多く、上方で仕入れた品物は北前船で酒田港に入り最上川舟運によって大石田河岸から仙台城下へ運びこまれました。
元和8年(1622年)の最上氏がお家騒動で改易になると一時新庄藩の所領となりますが山形藩鳥居氏に半ば強引に領地交換させられ、新庄藩は対岸の横山が飛地として残るのみとなります。
その後、大石田町一帯は天領となり寛政4年(1792)には川船役所が設けられ舟運支配の強化を強め、最盛期には酒田船250隻、大石田船290隻を数え、年間には24万俵の米俵が取引され、500隻の船が毎日出入りしていたとされます。
明治5年(1872)に川船役所が廃止され、道路網や鉄道が敷かれると舟運業は急速に衰退していきます。現在の大石田町にはその頃の文化遺産や史跡が数多く残り、町並みも道路の拡幅や店舗の近代化で数は減らしていますが、店蔵や土蔵が点在し良好な景観を見る事が出来ます。
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