尾花沢市(歴史)概要: 尾花沢市は古くから交通の要所とされ、中央には羽州街道 が貫き、仙台藩に抜ける寒風沢越しと軽井沢峠越しの2つのルート、大石田経由で最上川と繋がっていました。その為、尾花沢市一帯は軍事的にも重要視され、中世には延沢氏が延沢城(尾花沢市延沢:国指定史跡)を築き要衝を押える事で一帯を支配します。又、延沢氏は延沢銀山(尾花沢市大字銀山新畑:国指定史跡)の開発にも力を入たことで経済的にも強大となり、天童氏を中心とした「天童八楯」の中の旗頭として最上氏(山形城の城主)と敵対していきます。最上氏と天童氏の対立が激化すると最上氏は不利を悟り、和平を進める同時に「天童八楯」の分断を画策し、延沢氏を始め多くの家臣が天童氏を見限り、天正12年(1584)に天童氏は奮戦むなしく仙台領へ落ち延びていきます。その後、延沢氏は最上家の有力家臣として重きを成し、慶長5年(1600)の長谷堂城合戦や慶長6年(1601)の庄内(上杉領)侵攻、慶長14年(1609)の清水義親(最上義光の3男、豊臣秀頼と親しく謀反、又は謀反の恐れがあった為粛清された)討伐などに功績があり2万石が与えられました。元和8年(1622年)、主家である最上家が御家騒動の為山形藩主から改易となり、延沢光昌も肥後藩(現在の熊本県熊本市)加藤家預りの身となり尾花沢市は城下町の側面が消え、宿場町を主体とした経済都市として繁栄していきます。最上家が改易後、尾花沢市周辺は新たに山形藩に入封した鳥居忠政が支配し、特に延沢銀山の開発に尽力した事で生産が拡大し日本三大銀山の1つに数えられました。尾花沢の宿場もその消費地として多くの物資の集められ経済的発達し数多くの豪商を輩出しています。寛永13年(1636)、尾花沢代官所(尾花沢市梺町)に移り政治的にも中心的立場となり、紅花などを取り扱う事でさらに商業活動の盛んな町となっていきます。尾花沢宿には本陣も置かれ、文化人などの往来も多くなり、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」行脚で訪れます。芭蕉は10日間という長期に渡り尾花沢宿に滞在した為、現在でも尾花沢市には養泉寺(尾花沢市梺町)や鈴木清風宅邸跡(尾花沢市中町)など多くの芭蕉縁の史跡が点在しています。
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