上山市(歴史)概要: 上山市は古くから羽州街道と米沢街道の交差する 交通の要衝として知られ、南北朝時代に斯波氏(後の最上氏)が山形地方に配されると、上山には応永年間(1394〜1428年)に斯波兼頼の曾孫である斯波(上山)兼頼が高楯城を築き長く当地を支配しました。戦国時代に入ると上山は山形領と米沢領の境界線に近かった事から特に、伊達家(当時は米沢城の城主)とは何度も攻防戦を繰り広げました。慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いにおいても上山城が山形城の最終防衛ラインの1つとなり最上勢である上山氏は高楯城と月岡城(現在の上山城)に立て籠もり上杉勢を食い止めた場所となりました。元和8年(1622)に最上氏がお家騒動で改易となると、松平重忠が4万石で入封し上山藩を立藩、以後、藩庁が設置された上山城の城下町として発展しました。又、城下には奥州街道の脇街道で出羽諸侯が参勤交代で利用した羽州街道の宿場町でもあり多くの旅人や物資の流通などにも利用されました。藩主は松平家以後蒲生氏、土岐氏、金森家と短期間で次々と藩主がかわり、元禄10年(1697)に藤井松平家である松平信通が3万石で入封すると幕末まで続き安定した領国経営をした結果、現在の上山市の基礎となる町づくりを積極的に行います。上山市は城下町や宿場町の顔以外に湯町としても有名で、長禄2年(1458)に月秀和尚が上山を訪れると1羽の傷ついた鶴が湧き出る温泉に浸かっている姿を見つけ開湯に至ったとされます。温泉は上山藩が管理し「下の湯」をはじめ3箇所の共同浴場を開設し宿谷にも温泉を引き込むなど、湯治客だけでなく、羽州街道の旅人や住民まで解放し、城下町はおおいに賑ったそうです。現在の上山市は武家町や商人町の風情ある町並みが続き、上山温泉としても新たに新湯、高松、河崎、葉山に温泉街が出来一大温泉地として名を馳せています。
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