上山藩:藩校・明新館概要: 上山藩の藩校は文化6年(1809)、当時の上山藩7代藩主松平信行によって開かれ、当初は広福寺の境内に学問所を設け天輔館と称していました。講師には当時の高畑藩(東置賜郡高畠町)の藩主織田家の家臣武田孫兵衛を召還し、伊藤仁斎、萩生祖来なども藩士の教育に当たり。その後、米沢藩(米沢市)の藩士服部豊山や穴沢九斎、神保蘭室などが引き継ぎ、上山藩士からも山田政苗、本沢竹雲、五十嵐于拙、増戸庄右衛門、毛利重孝、栗山道紹などが教鞭をとっています。天保11年(1840)、8代藩主松平信宝にさらなる学問所の充実を図り現在地に移って単独の建物として藩校を造営し「明新館」と名付けられました。
敷地は間口18間(32.7m)、奥行き30間(54.5m)で、建物は間口13間(23.6m)、奥行き24間(43.6m)あったとされ、敷地外には馬場(沢丁)や鉄砲場(八幡堂)があり、藩校内部には登龍門、演武場、詰所、塾部屋、教室、留間、教員詰所、上段(床の間、違い棚付)、講堂、聖廟(孔子尊像と幕府からの朱印状を守り本尊として安置)、文庫などがありました。
明治4年(1871)に廃藩置県が執行され上山藩が廃藩となり、明新館も廃止されると宅地開発されましたが、敷地の東側奥には当時の石積が残っているそうです。
又、周辺は上山藩の中級武家屋敷街で、現在でも「森本家」、「三輪家」、「曽我部家」、「山田家」の武家屋敷が残されています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-上山市教育委員会
|
|