鏡石・藩境界石標(上山市)概要: 藩境界石標は文化4年(1817)に、上山藩7代藩主松平信行が上山藩(藩庁・上山城)と山形藩(藩庁・山形城)の藩境である地蔵堂地内に設置されたもので高さ2m、幅33p、厚さ33pと山形県内の中でも最大級のものです。当初は木柱だったそうですが老朽した事により安山岩の石造に造り替えられました。正面には上山藩士で儒学者、家人、書家でもあった松雨亭五十嵐千拙の書で「従是南上山領」が刻み込まれています。
明治4年(1871)の廃藩置県によって上山藩が廃藩になると藩境界石標も不要となった為、民間に払い下げられ何度か所有者が変わり近年になって現在地に移ってきました。鏡石は古くは湯町一帯が沼地だった頃、沼の出入り口付近にあったとされ、その姿形や月明かりに照らされた様から鏡石と名付けられました。その後、沼が埋め立てられると、鏡石は石橋として利用され鏡橋と呼ばれましたが、その橋も年月と共に代が替わり鏡石も土中に埋没してしまいました。
大正時代初期に観音寺の前の道路工事によって再び掘り起こされると、由緒がある名石だった事から保存され現在地に遷されました。現在は両石とも鶴泉園の中に庭石として安置されています。因みに「鶴泉園」の名称の由来は、上山温泉の発見者とされる月秀上人が脚(脛)を傷ついた1羽の鶴が源泉で湯浴びをして傷を癒しているのを見つけた事から上山温泉の別称が鶴脛温泉と呼ばれていることに起因しています。上山藩領境界石標は昭和48年(1973)に上山市指定有形文化財(考古資料)に指定されています。
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