上山城

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概要・歴史・観光・見所
上山城(月岡城:羽州の名城)概要: 当地は羽州街道米沢街道が分岐する交通の要所で、特に戦国時代は米沢城山形県米沢市)を本拠とした伊達領と山形城山形県山形市)を本拠とした最上領の境界に近く軍事的に極めて重要視されていました。羽州街道は江戸時代に正式に開削された街道で、奥州街道の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)から分岐して伊達領内の七ヶ宿を経由して出羽国(現在の秋田県と山形県)を縦断し、再び奥州街道(松前道)の油川宿(青森県青森市)を結ぶ重要な幹線だった為、中世も前身となる街道があったと思われます。米沢街道は上山城と米沢城を結ぶ街道で比較的距離が短く頻繁に交流がありました。

当地は、応永年間(1394〜1428年)に最上家と同じく斯波家の後裔である上山満長が高楯城を築き、上山氏(武衛氏)が長く当地を支配していましたが、永正5年(1508)、又は永正11年(1514)に伊達稙宗の侵攻を受け落城し、当時の城主上山義房は同族である天童氏を頼り天童城山形県天童市)に逃れます。

高楯城には伊達家の一族で家臣でもある小簗川氏が配されたものの、享祿元年(1528)、又は天文4年(1535)に義房の跡を継ぎ最上家に従った武衛義忠が高楯城を取り戻り、居館となる上山城を天神森へ築きます。しかし、義忠は最上家を見限り伊達家に近接した為、最上氏は武衛氏の家臣である里見民部を使って暗殺させ上山城は最上家領となります。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では石田三成が主導した西軍に与した上杉家の執政直江兼続が最上領に侵攻し、米沢方面では長谷堂城(山形県山形市)と上山城以外は全て落城するといった敗戦を重ねます。里見民部は思い切った奇襲を行い、一時上杉軍を足止めし直江兼続の副将の本村親盛を討ち取る等の功を挙げた結果、本戦である関ヶ原で西軍敗戦の報が入り上杉軍は最上領より撤退、これにより出羽戦線の最大の功績があった最上家は57万石に加増され山形藩を立藩、民部は長崎城主として1万7千石が安堵されました。

元和8年(1622)、山形藩3代藩主最上義俊は幼少だった事もあり57万石という大藩を治め切れず、家臣の中で初代藩主最上義光の4男山野辺義忠を擁立する一派と対立した「最上騒動」が勃発、結果、最上家は改易となり領地が没収となり、里見民部は最上義康を讒言した事が最上騒動の一因だったとして粛清されています(里見民部は上山城での活躍は全国の諸大名にも聞こえ、高禄で召し抱えようとしましたが、その都度最上家から横槍が入り仕官する事が出来なかったそうです)。

これにより、旧最上領は分断され上山領には横須賀藩(現在の静岡県掛川市松尾町)から松平重忠が4万石で入封し上山藩を立藩、藩庁、藩主居館が置かれた上山城は直ちに修築されましたが、僅か数年後の寛永3年(1626)には三田藩(現在の兵庫県三田市)に移封となり、変わって蒲生昌勝が4万石で入封し上山城に入りました。

ただし、蒲生昌勝は会津藩(現在の福島県会津若松市)主蒲生忠郷の弟で上山藩はあくまで会津藩の支藩扱いだった事から寛永4年(1627)忠郷が死去し跡継ぎがいなかった為、蒲生家が改易になると昌勝も連座の対象となり上山城を離れました(昌勝の生母が徳川家康の娘だった事から蒲生家宗家を昌勝が引き継ぐ事が許され寛永5年(1628)に60万石から24万石の減封の上、松山藩(現在の愛媛県松山市)に移封となりました)。

同年、土岐頼行が守谷藩(現在の茨城県守谷市)から2万5千石で入封、頼行は本格的な近代城郭として改築、本丸の東側には天守閣に替わる三重櫓、東南の隅には二重櫓など配し櫓門や水掘で囲まれる姿は「羽州の名城」と呼ばれるまでなりました。さらに、頼行は朝鮮通信使の饗応役、大坂城番、甲府勤番などの要職を歴任しました。

又、名僧で上山に流された沢庵宗彭(寛永4年:1627年、後水尾天皇が幕府に許しを得る前に大徳寺の住職対して紫衣着用の勅許を発令すると、幕府側がそれを無効とした事から沢庵和尚は幕府に対して反対運動を展開しました。これにより幕府から敵視され捕縛、有罪となり上山城の土岐頼行預かりとなりました。頼行は沢庵和尚の思想や生き方に共感を覚え、幽閉といってもかなり自由な行動を許され春雨庵(草庵)を与えて厚く保護し、藩主として考え方や政策などの教えを請うたそうです。又、上山城の本丸庭園も沢庵和尚が作庭したとも。)を保護する一方で篤く帰依し、沢庵和尚の助言もあり城下町や領内の整備に尽力しています。

元禄5年(1692)に2代頼殷が越前野岡藩(現在の福井県今立郡今立町野岡)に移封になると、上山城は一時廃城となり幕府の命で三重櫓を始め城郭が破棄されます。

同年金森頼時が飛騨高山藩(現在の岐阜県高山市)から3万8千7百石で入封した時は上山城に高層建築は建てられず、二の丸に居館を設けた程度でした。頼時は元々飛騨高山藩(岐阜県高山市)の藩主で元禄2年(1689)には5代将軍徳川綱吉の奥詰衆や側用人などの幕府の要職を歴任しました。

頼時は日頃から素行が悪かった為(諸説あり:飛騨地方は良質な木材が豊富に取れる産地だった事から幕府が直接支配をもくろんだとも言われ、実際天領となり代官陣屋が設けられています。)に早々に解任され、元禄5年(1692)に事実上の左遷により上山藩に移封になったとされます。元禄10年(1697)に頼時が郡上藩(岐阜県郡上市八幡町)に移封になると同年に松平信通が庭瀬藩(現在の岡山県岡山市北区庭瀬)から3万石で入封し再び上山城は整備されますが、天守閣などは建てられませんでした。

上山城は明治維新後に廃城となり、現在は二の丸に模擬天守(昭和57年:1982年建築、鉄筋コンクリート造、内部は上山城郷土資料館)が建ち、本丸には上山藩主藤井松平家を祭る月岡神社が建立されています。上山城の遺構としては本丸西側に内堀の一部が残り、土塁や石垣の跡が僅かに見て取れ、庭園は当時作庭されたものとされます。又、城門が「龍波」に籾蔵が鈴木家にそれぞれ移築されています。上山城は昭和32年(1957)に上山市指定史跡に指定されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

上山城:模擬天守・土塁・写真

天守閣
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模擬天守 土塁 門跡 堀跡
模擬天守・外観 城内 本丸土塁 本丸


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