米沢城

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概要・歴史・観光・見所
米沢城(別名:舞鶴城・松ヶ岬城)概要: 米沢城を最初に築城したのは、鎌倉時代初期上杉鷹山銅像に置賜郡の地頭職に赴任した大江時広が暦仁元年(1238)に築いたとされます。大江時広は鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男でしたが、兄である大江親広は承久の乱で後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与した為、寒河江荘に隠遁した為、広元が大江氏の惣領を継ぎ鎌倉幕府御家人として尽力しました。仁治2年(1241)に広元が死去すると嫡男である長井泰秀が出羽長井荘を継ぎ、泰秀の家系が室町時代初期まで米沢城の支配が続きます。鎌倉時代末期、長井広秀は執権北条氏を見限り、後醍醐天皇方として倒幕運動に尽力しましたが、その後は足利尊氏に従い南北朝の争乱では北朝方に与し、一方、隣接する伊達郡の伊達氏は南朝方に与し対決姿勢が鮮明となっていました。

広秀は建武2年(1335)に足利氏の執事に就任するなど主に中央で行動した為、伊達氏の台頭を招き天授6年/康暦2年(1380)に伊達宗遠が出羽国置賜郡に侵攻し高畠城(山形県高畠町)を本拠としました。伊達氏の版図の拡大は続き元中2年/至徳2年(1385)頃に伊達政宗の代に長井荘が陥落し大江氏が没落した為、米沢城も伊達氏の管理下に入ったと思われます。その後、伊達氏は西山桑折城(福島県桑折町)に居城を移すものの、戦国時代の永禄年間(1558〜1570年)に伊達晴宗が本拠を米沢城に遷し本格的な城郭として拡張整備されました。

晴宗の跡を継いだ伊達政宗も米沢城を本拠として版図を広げ、天正19年(1589)に南奥羽に広大な領地を所有していた芦名氏を「摺上原の戦い」で破ると、本拠を会津黒川城(福島県会津若松市)に遷しました。しかし、政宗は天正18年(1590)の小田原参陣に遅れ芦名氏との闘いは惣無事令違反と断罪、旧芦名領が没収され再び本拠を米沢城に遷し、さらに、伊達家の従属した葛西氏、大崎氏が豊臣秀吉の奥州仕置きにより改易になった事を不服として大一揆を発生させた不手際により、政宗は天正19年(1591)に岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移封されます。

代わって会津黒川城90万石の城主となった蒲生氏郷の一族で重臣である蒲生郷安が3万5千石で米沢城を受け取ります。慶長3年(1598)、蒲生秀行が幼少だった事もあり家臣の派閥争いを押さえる事が出来ず宇都宮城(栃木県宇都宮市)に12万石で移封になると、代わって五大老の一人上杉景勝が120万石で鶴ヶ城(蒲生氏時代に会津黒川城から改名)に入り、米沢城へは上杉家執政の直江兼続が30万石(実質は6万石程度とも)で配されました。

慶長5年(1600)に関が原の合戦後は西軍側に付いた上杉景勝は米沢城120万石から30万石に減封され本拠地を鶴ヶ城から米沢城へ移され米沢藩を立藩します。当時の米沢城はまだまだ小規模だったとされ直江兼続を中心に縄張りと城下町が計画され堀立川から水を引き込み新たに三之丸を拡張し、本丸や二之丸も改修されました。慶長14年(1609)に米沢城は一応完成し、2代藩主上杉定勝の時代に概ね藩政の基礎が固まっています。

その後も歴代上杉家が城主を歴任し、寛文4年(1664)には3代藩主上杉綱勝が跡継ぎ無く死去した為、改易の危機にさらされ15万石に減じられ、8代藩主上杉重定の代には幕府に領地を返上する騒ぎとなりましたが、9代藩主上杉治憲(鷹山)の改革が成功を収めた事で米沢城は維持され明治維新を迎えています。

戊辰戦争の際は奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦いましたが、米沢城が戦場になる前に降伏し開城しています。明治2年(1869)に米沢藩14代藩主上杉茂憲が版籍奉還した事で米沢藩は廃藩となり米沢城も廃城、明治6年(1873)には残された建物も破却されました。米沢城は明治維新後に廃城となった為、建物の遺構はなく、内堀と土塁の一部が遺構として残っています。本丸の大部分が上杉神社の境内となり周囲は公園として整備され、二の丸には松岬神社旧上杉家伯爵邸などがあり米沢市の観光の中心となっています。

【 米沢城・縄張り 】: 米沢城は輪郭式平城で、東西168m、南北145m規模の本丸を中心に本丸より一回り規模が大きい2之丸が囲い、さらに三之丸が内郭部を囲い概ね3重の水掘と土塁で郭内を構成し堀立川(人口掘削)と最上川(松川)を天然の外堀として見立てていました。本丸には藩主居館の他、東隅と北西隅に御三階櫓を建て天守閣の代わりとし、二之丸との間には大手門、本丸北門、菱門の3つの門があり水堀と土塁で囲われていました。二之丸には2層櫓が4基や、作事屋、勘定屋、用部屋といった米沢藩の施設や上杉家の菩提寺である法音寺、米沢新田藩1万石の陣屋などが設けられました。三之丸には大御門、南御門、西門、北門の4つの門があり水堀と土塁で囲われ概ね上杉家の家臣の武家屋敷が建てられています。三之丸の櫓の数は不詳ですが米沢城全体は年代で前後するものの概ね10基の櫓、17門の城門があったとされます。基本的には土塁中心の城で腰巻や主要部の一部のみに石垣が利用されています。

【 米沢城・城下町 】: 外堀内部の郭内は略武家屋敷が配され、城下に引き込んだ街道沿いと城の東側に商人町が形成されました。会津黒川城(鶴ヶ城)とを結ぶ会津街道(会津側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入り口には照陽寺(上杉憲政菩提寺)、常安寺(上杉謙信開基)、越後街道(越後側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入りには上田長尾家の菩提寺龍言寺が、参勤交代で利用する米沢街道には福島側の東方と上山川側の北方には寺町が形成され多くの寺院が集められました。特に大身の墓碑は直江兼続が考案した万年塔と呼ばれる独特の形式が採用され、有事の際は取り外しの出来る屋根を外し、防壁、洪水の際は砂や土を積め簡易な堤防になるように計画されました。

米沢城の本丸から見て北東の鬼門にあたる三之丸の土塁の上には、鬼門鎮護として五穀稲荷神社が勧請され米沢城の裏鬼門にあたる南西方向には直江家の一族が住職を務め直江兼続が庇護した鳳台寺、北西には聖地である上杉家廟所が配されています(米沢城からはかなり離れていますが南陽市宮内に境内を構える熊野大社も米沢城の鬼門鎮守として篤く庇護されています)。上杉家廟所は米沢城から見ると北西にあたり、本来は城内に改装された上杉謙信の霊柩が有事の際に避難させる場所として想定されていましたが、元和9年(1623)に上杉景勝が死去し葬られると歴代藩主もこれに倣っています。又、城下に収容出来なかった下級武士は城下に近い要衝に幾つかに分かれ半士半農の暮らしを行い現在でもその名残の町並みが見られます(上杉家は120万石から30万石、15万石に石高が減らされても基本的に家臣を強制解雇しなかったとされます)。傾奇者として知られた上杉家の客将前田慶次も米沢城の郊外にある堂森に屋敷を構えていたそうで、近くにある堂森善光寺の境内には前田慶次の供養塔が建立されています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-米沢市

米沢城:石垣・堀・土塁・写真

舞鶴橋
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内堀 菱門橋・内堀 内堀 本丸土塁
上杉神社参道 内堀 本丸・伊達政宗誕生地 内堀


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