照陽寺(米沢市)概要: 白瀧山照陽寺は山形県米沢市城南5丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。照陽寺の創建は永禄元年(1558)に開かれたのが始まりとされます。当初は春日山城(新潟県上越市)の城下に境内を構え、天正6年(1578)に上杉憲政が死去すると境内に葬られています。
上杉憲政は関東管領を務めた山内上杉家の当主で関東地方に大きな影響力を持っていましたが、武田家と小田原北条家の台頭により次第に窮地に追い込まれ、天文21年(1552)に居城である平井城(群馬県藤岡市)が落城すると長岡影虎(後の上杉謙信)を頼り越後に逃れています。
永禄4年(1561)に上杉憲政は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で長岡影虎に上杉姓と関東管領を譲渡、天正6年(1578)に謙信が死去すると御館の乱(謙信の養子である景虎と景勝との家督争い)では景虎に与し自身の居館である御舘を拠点して景勝と対立しましたが和平交渉する為に春日山城に向かった際、討死又は自刃したと云われています。享年57歳、戒名:慶雲院殿泰公宋大居士。
上杉家の家督を継いだ景勝は慶長3年(1598)に会津黒川城(福島県会津若松市)120万石、慶長6年(1601)に米沢城(山形県米沢市)30万石に移封となり照陽寺はその都度随行しています。
嘉永6年(1853)の火災により多くの堂宇が焼失し、火災を防ぐを事を念じて山号を白龍山から白瀧山に改めています。境内には上杉憲政の他、山吉新八の墓碑が建立されています。山吉新八は米沢藩士でしたが、米沢藩4代藩主上杉綱憲の次男である義周が吉良家の養子となり家督を継いだ為に義周に随行し吉良家の家臣となりました。
元禄15年(1703)の元禄赤穂事件により義父の吉良義央が赤穂浪士により惨殺され、吉良家は改易となり義周は高島藩諏訪家に預かりの身となり高島城(長野県諏訪市)に幽閉、その際山吉新八は高島城に随行し身の回りの世話などを行っています。
宝永3年(1706)に義周が死去すると米沢藩に3人扶持五石復帰し宝暦3年(1753)に死去、享年83歳、戒名:玄亮院殿無性本然居士、菩提は照陽寺境内に葬られています。米沢三十三観音霊場第4番札所(札所本尊:十一面観音立像)。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼仏。
|