法泉寺(米沢市)概要: 恵日山法泉寺は山形県米沢市城西2丁目に境内を構えている臨済宗の寺院です。元和4年(1618)に上杉景勝が開基となり雲岩寺(福島県那須市)の住職である九山大和尚を召還して開山したのが始まりとされます。
寺院の造営にあたっては上杉家執政の直江兼続があたり、その際、九山和尚と協力し米沢藩(藩庁・米沢城)の学問所である「禅林文庫」を境内に設けています。禅林文庫は藩校の前身となる施設で、江戸時代初期の米沢藩士がここで学問を学び、藩校興譲館が開校すると蔵書などが引き継がれています。
慶安元年(1648)には2世絶山和尚により「禅林文庫」の鎮守として切戸の文殊(京都府宮津市)の分霊を勧請して文殊堂を創建し、米沢藩が廃藩後に興譲館の構内にあった先聖殿(孔子を祀る聖堂、江戸時代の藩校では朱子学を学問として学ぶ事が多く、その祖となった孔子が祀られる例が多い)が境内に遷されています。
法泉寺の敷地広さは4800坪を越えると言われ境内には米沢藩2代藩主上杉定勝が九山禅師と共に作庭(京都の天竜寺の庭園を模したと伝えられています。)した庭園があり当時は林泉寺庭園、旧上杉伯爵邸庭園と共に米沢三名園の1つに数えられるほどでした(現在は庭園中央部に道路が開通した為規模が縮小しています)。
この庭園は上杉鷹山が明和7年(1770)に家臣120名と共に詩会を開いた場所としても有名で、「鷹山公詩会の庭園」とも呼ばれています。
法泉寺は当初、禅林寺と称していましたが元禄3年(1690)に2代藩主上杉定勝の3女亀姫の菩提寺となると法名「法泉院殿浄因永真大姉位」に因み法泉寺と改称しています。上杉家は「忠臣蔵」で有名な吉良上野介とも縁が深く定勝の四女富子(法名:梅嶺院殿清厳栄昌尼大姉位)が奥方となっていて墓碑が法泉寺にあります。
又、5代藩主上杉吉憲の側室(法名:祥寿院殿盛嶽貞栄尼公大姉位)の墓碑もあり上杉家の菩提寺の1つとして庇護されていました。山号:恵日山。宗派:臨済宗。本尊:釈迦如来。
上杉景勝開基、直江兼続が差配し、九山宗用禅師を招いて元和4(1618)年に創建した禅宗寺院。兼続の蔵書や九山が足利学校からもたらした書籍を備え、米沢藩士の子弟が学ぶ学問所となった。
墓の説明板より…『遠藤家先祖累代諸精霊卒塔婆供養塔建立を記念して。遠藤家は藩政時代に遠藤忠左衛門殿(1540年元文5年代没)が上杉藩の軍防と開墾を主目的とした半士半農政策によおり大舟村の開拓に從事され以耒14代目当主権兵衛殿の間約300余年間大舟村の旧家としてその伝統を守られてきました。遠藤家は代々恵日山法泉寺の檀信徒として信仰心厚く寺院に尽くされてきました。
特に現当主権兵衛殿は法泉寺開基上杉景勝公三百年忌・法泉寺開山勅諡三味正受禅師九山大和尚三百五十年忌に当り多額の浄財を喜捨されたほか常に菩提寺に対し協力されその功績は偉大なものがあります。遠藤家の墓地は大舟村字前田地内の遠藤家所有の丘陵地にありましたがその後墓地が玉庭村大字大舟字大日向山から川西町大字大舟字西女夫坂と移り現在の墓地は明治43年に整地整備されたものである。当主権兵衛殿は平成元年を期し先祖に対する感謝と遠藤家子孫の殷昌を祈念し墓地を拡張整備され卒塔婆供養塔を建立されました。その完成に当り遠藤家先祖累代の諸精霊に対し謹しんで回向申し上げます。一たび卒塔婆を見上るものは永く三悪道を離る。ましていわんや之を造立する者は必ず安楽国に生ぜん。遠藤家先祖累代の諸精霊位の為に浄財を喜捨し卒塔婆を建立す。その施主遠藤権兵衛殿及び志の人御家族御一同殿。唯願わくば立塔の功徳力によりて曠却の無明は直下に消滅し直空の妙智は即時に現前せんことを。一見卒塔婆 永離三悪道 河況造立者 必生安楽国。恵日山法泉寺黒木克堂。平成元年4月吉日』
今月は、米沢における文教の発祥地として知られる法泉寺と、同寺の庭園や境内の文殊堂を訪ねてみました。
法泉寺は、元和4年(1618)直江兼続によって創設された臨済宗の寺院で、初めは禅林寺という名前でした。兼続は足利学校で修業させた九山和尚を呼び寄せ、兼続や九山が集めた図書を備え、米沢藩士の子弟を教育するための学問所としました。
それは禅林文庫と呼ばれ、ここに起こった学問の流れや蔵書は、藩校興譲館へと受け継がれ、現在この蔵書は市立米沢図書館などに伝わり貴重な文化財となっています。こうしたことから、法泉寺は米沢の文教の発祥地と呼ばれているのです。
元禄3年(1690)に、二代藩主定勝の三女亀姫の法名(法泉院殿)をとり、禅林寺から法泉寺と寺名が変わりました。法泉寺にはこの亀姫の墓と共に、定勝の四女で、吉良上野介義央の奥方となった三姫(富子)の墓もあります。
三姫の墓から白髪の髻が入った壺が見つかり、三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ、「忠臣蔵」の隠れた史跡として最近注目されています。
法泉寺の庭園は、米沢の三名園の一つで、九山和尚の時代に京都天竜寺の名園をまねて造り、享保年中に、画家としても知られる小田切寒松軒が補修したと伝えられています。歴代の藩主も好んで訪ね、鷹山も、明和7年(1770)8月15日に家臣120余名を連れ、詩会を開いています。大正の大火後に、立町から番正町まで新道が開かれたため庭園が南北に分断し、池の水も涸れましたが、苔に覆われた庭園は新たな趣きをみせてくれます。新道を作る際、堀立川には擬宝珠の付いた朱塗りの「文殊橋」が架けられ、当時は米沢の名所の一つに数えられていました。
境内の文殊堂は、二代目の絶山和尚が慶安元年(1648)に切戸の文殊(京都府宮津市)を勧請したものと伝えられています。元禄2年に立派なお堂が建てられましが、寛政元年、大正6年と二度の火災にあい、現在のお堂は昭和5年に再建されたものです。知恵の文殊として信仰され、元日や7月24日の例祭には多くの参拝者でにぎわいます。
「法泉寺」(ほうせんじ)は大河ドラマ「天地人」の主人公にもなった米沢藩上杉家の重臣・直江兼続が「禅林寺」という寺名で創建したお寺。当初は兼続と足利学校で学んだという九山和尚によって文書が集められ、「禅林文庫」という名の米沢藩の学問所でもあったそう。その後米沢藩4代目藩主・上杉綱憲によって現在の寺名となり、上杉家の臨済宗の菩提寺となりました。
「法泉寺庭園」は江戸時代初期、2代藩主・上杉定勝の命で九山禅師により京都・天龍寺庭園を模して作庭されたという池泉回遊式庭園で、江戸時代中期には絵師としても名を馳せた米沢藩士・小田切寒松軒によって改修。
上杉記念館(上杉伯爵邸)庭園と、同じく上杉家の菩提寺である林泉寺の庭園とともに米沢三名園の一つと呼ばれています――が、昭和初期に現在のように境内の間に道路を通した影響で水が枯れてしまったそう。
その池泉(の遺構)に浮かぶ鶴亀島や築山にある滝石組、そしてその背景を彩る紅葉と愛宕山?の借景――などなど、これは本当にかつては素晴らしい庭園だったんだろうなあ、と想像できる。
ちなみに下記の関連サイトの過去の写真を見ると、以前は境内がもっと緑深かったようですが、樹木が意図的に伐採されたのか境内は明るくだいぶ印象が違う。苔の緑が薄くなっているのはその影響かなあ…。
前述の通り道路によって分断されている法泉寺の境内ですが、庭園がある側の境内にあるのが「文殊堂」。現在の建築は昭和初期のもので、訪れた際は補修工事中でした。また境内には直江兼続にまつわる石碑・詩碑も建つとのこと――気づかなかったので写真におさめてなかったけど…。また、「忠臣蔵」で知られる吉良上野介義央の遺髪がおさめられた墓所がこの寺院にあるとか。林泉寺と異なり受付もなく自由拝観だけど、重要なお寺さんだと思う。
(2018年11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
関
法泉寺庭園の東にある先聖殿です。先聖殿は、孔子を祀っていました。4代藩主上杉綱憲による創建と伝えられられています。当初は「感麟殿」の名でしたが、後に上杉鷹山公により「先聖殿」と改称され、藩校興譲館の正面に置かれました。その後移転を繰り返し、昭和に入り、法泉寺庭園内に移されました。
元禄3年(1690)に、二代藩主定勝の三女亀姫の法名(法泉院殿)をとり、禅林寺から法泉寺と寺名が変わりました。法泉寺にはこの亀姫の墓と共に、定勝の四女で、吉良上野介義央の奥方となった三姫(富子)の墓もあります。三姫の墓から白髪の髻が入った壺が見つかり、三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ、「忠臣蔵」の隠れた史跡として最近注目されています。
(左手奥の宝居印塔)
法泉寺の庭園は、米沢の三名園の一つで、九山和尚の時代に京都天竜寺の名園をまねて造り、享保年中に、画家としても知られる小田切寒松軒が補修したと伝えられています。歴代の藩主も好んで訪ね、鷹山も、明和7年(1770)8月15日に家臣120余名を連れ、詩会を開いています。大正の大火後に、立町から番正町まで新道が開かれたため庭園が南北に分断し、池の水も涸れましたが、苔に覆われた庭園は新たな趣きをみせてくれます。新道を作る際、堀立川には擬宝珠の付いた朱塗りの「文殊橋」が架けられ、当時は米沢の名所の一つに数えられていました。
|