上杉定勝

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上杉定勝(上杉廟)
【 概 略 】−上杉定勝は慶長9年(1604)に米沢藩初代藩主上杉景勝と桂岩院との子供として生まれました。景勝は正室として菊姫(武田信玄の娘)を迎えていましたが、子供を儲ける事が出来ず、40後半に差し掛かった為、重臣である直江兼続が上杉家断絶を恐れ側室を勧めたとされます。桂岩院は西園寺家(清華家の家格を有する公家で藤原北家閑院流の一門)の一門である四辻家の出身でしたが、定勝を出産すると産後の肥立ちが悪く100日余で米沢城で急死しています(戒名:桂岩院殿月清佳大姉)。当初は上杉家一族(当主以外)の菩提寺である林泉寺に埋葬されましたが、桂岩院が急死したのは菊姫の恨みによるとの噂となり、急遽「極楽寺」に改葬され墓碑が建立されています。

定勝は直江兼続の後室である御船の方が養育係として育てられ、事実上の養母として絶大に信頼していました。元和5年(1619)に兼続が死去すると御船の方には景勝から3千石が与えられ、元和9年(1623)に景勝が死去すると定勝が同じく3千石と手明組40人を与えています。当時の女性で3千石を有していたのは、豊臣秀吉の正室ねねの方と3代将軍徳川家光の乳母である春日局の3人しかいない事からも如何に愛情があったのかが窺えます。又、「米沢雑事記」によると「兼続が死んだ後も大小様々な事案は後室(御船の方)に相談した方が良い。昔、源頼朝が死んだ後に北条政子が尼になったものの、実権を握り尼将軍と呼ばれたが、直江後室(御船の方)も似たようなものだ。」と記され、定勝の事実上の養母として米沢藩で大きな権力があった事が窺えます。

寛永13年(1636)に御船の方が危篤になると定勝は伊勢神宮(三重県伊勢市)に大神楽を奉納し病気平癒の祈願を行い見舞いを行いましたが、寛永14年(1637)に死去しています。ただし、御船の方の死去に伴い直江家の菩提寺である徳昌寺は庇護者を失い勢力が弱体化すると、上杉家と関係が深い林泉寺に嫌がらせを受け廃寺に追い込まれ、兼続、御船の方夫妻の供養も行われなくなっています。

定勝は元和9年(1623)に景勝が死去した事に伴い米沢藩2代藩主に就任しています。寛永15年(1638)には総検地を実施し貢租制度の整備を行い、就任期間中には藩内の支配体制の整備、藩主直属支配体制への移行、キリシタン取締りを強化、質素倹約の奨励、寛永17年(1640)には延沢銀山(山形県尾花沢市)への出稼禁止などを行っています。特にキリシタン弾圧は熾烈だったとされ、上杉謙信時代から重臣だった甘糟家の嫡男で米沢藩内キリシタンの指導者だったルイス甘糟(甘糟信綱)が寛永5年(1628)に一族と共に打ち首となり、その1か月間で57名が処刑されたと記録されています。

幕府による参勤交代が厳格化されると定勝は「道中法度十ヶ条」を制定して街道や宿場町の整備が行われています。新田開発も積極的に行い寛永2年(1625)には長堀堰の工事を許可し寛永20年(1643)に完成、周辺では多くの水田が広がり米沢藩表高30万石が実石で51万石余になったとも云われています。寛永20年(1643)に会津藩の藩主加藤明成が改易になると3代将軍徳川家光は伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣を事前に呼んで経緯を説明したとされ、定勝はその処理にあたっています。

上杉定勝は社寺の保護も行い、九山禅師に命じて天龍寺庭園を模して法泉寺(山形県米沢市:法泉寺は定勝3女亀姫の菩提寺で、4女富子の墓碑も建立されています)の庭園を作庭、白山神社(山形県長井市)の社殿の改築、寛永7年(1630)には安久津八幡神社(山形県高畠町)の本殿を造営、寛永11年(1634)には笹野観音堂(山形県米沢市)の修築が行われています。又、保養所として赤湯温泉を開発し温泉街には藩主専用の御殿湯が設けられています。正保2年(1645)死去、享年42歳、廟所は上杉家廟所に設けられています。

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