【 概 要 】−水野忠精は天保3年(1832)、浜松藩初代藩主水野忠邦の子供として生まれました。水野忠邦は老中として天保の改革を断行したものの失敗、その後復権しましたが政敵への疑獄の嫌疑が発覚し弘化2年(1845)に強制隠居、謹慎が命ぜられています。忠精に家督を継がせる事が認められられましたが7万石から5万石に減じられた上に山形藩に懲罰的な移封が行われています。その後は嘉永6年(1853)に奏者番、安政5年(1858)に寺社奉行、万延元年(1860)に若年寄、文久2年(1862)に老中と外国御用取扱、同年には忠精の屋敷で英国代理公使ニールが東禅寺事件賠償金要求、元治元年(1864)に老中首座と出世を重ねました。慶応2年(1866)隠居、明治17年(1884)死去。
水野忠精は弘化5年(1848)に山形城二の丸内に藩祖である水野忠元を祭神として祭っている豊烈神社を遷座し社殿を造営、嘉永4年(1851)、忠精が山形城に滞在している際に火災が発生し新殿が焼失、安政2年(1856)には唐松観音堂(山形県山形市)を修築、六椹八幡宮(山形県山形市)を篤く崇敬しています。
水野忠精は若年寄や老中など幕府の中枢を担った事から江戸城に詰める事が多く、実際の山形藩の政務は城代家老である水野元宣が取り仕切る場面が多く特に幕末から明治初頭に発生した戊辰戦争では山形城下に戦禍が及ばないよう苦心したようです。当初は新政府軍に従い、幕府軍の主力である庄内藩を攻め、その後、孤立を避ける為に奥羽諸藩と越後諸藩による奥羽越列藩同盟に参画、形成が不利になると新政府軍に降伏し大きな被害を避けています。しかし、この行動が新政府軍から不興を買い長源寺の境内で斬首されています。
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