長源寺(山形市)概要: 淵室山長源寺は山形県山形市七日町3丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。長源寺の創建は慶長7年(1602)、鳥居忠政が平藩(現在の福島県いわき市)に移封になった際、父親である鳥居元忠の菩提を弔う為に開いたのが始まりとされます。当初は磐城胡麻沢にありましたが、元和8年(1622)、最上家が御家騒動で改易になると、忠政が山形藩に移封となり長源寺もこれに従いました。入封当初、境内は最上家の菩提寺である光禅寺に与えられていたものでしたが、当地は山形城の大手筋に辺り交通の要衝、軍事的にも重要な位置で、広大な境内や立派な堂宇など藩主の菩提寺に相応しい格式を備えていた為、半ば強引に譲り受け、光禅寺は門前町共々現在の鉄砲町に移されました。
鳥居忠政は徳川家の譜代大名として信任が篤く、仙台藩の伊達家や久保田藩の佐竹家など外様大名の監視の意味を込めて山形藩に配された人物で、実際に能力も高く河川の改修工事や街道の整備、地場産業の育成、延沢銀山(日本三大銀山)の開発などを行い藩政に尽力いています。しかし、力尽くの手法や配慮不足、当地域が中世以来、最上家の支配が続いていた事などから、最上家の縁や恩があった社寺、民衆からは毛嫌いされ、事ある毎に反発されています。寛永5年(1628)に忠政が死去し長源寺に葬られた際も、多くの民衆が喜んだとされ、山寺立石寺の住職が呪い殺したなどの噂が立つ程でした。
享保2年(1717)に堀田正虎の嫡男である八十郎が死去すると境内に葬られ墓碑が建立されています。又、長源寺は戊辰戦争の時の山形藩家老水野元宣が刑死させられた場所としても知られています。元宣は文武双方に優れた人物とされ、22歳で家老職に就任すると藩政に尽力し、戊辰戦争の際は藩主である水野忠精が京都に居て不在だった為、責任者となっていました。
当初、山形藩は官軍に与していましたが、旧幕府軍の主力である庄内藩(藩庁・鶴ヶ岡城)に敗れ、さらに奥羽越列藩同盟に参加した事で朝敵とされました。敗戦後、元宣は責任を一身に背負い、自ら刑死を望む代わりに他には寛容な処置を賜るように嘆願し長源寺境内で果てました。享年27歳。長源寺の境内には鳥居忠政や水野元宣、赤星守人などの墓碑が建立されています。山形百八地蔵尊霊場第19番札所。山号:淵室山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
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