山形市: 浄光寺

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概要・歴史・観光・見所
浄光寺(山形市)概要: 本眷山浄光寺の創建は戦国時代、日満上人(会津妙法寺5世)が本尊となる毘沙門天像を奉祭し山形城の城外である吉原村に草庵(法喜庵)を設けたのが始まりとされます。天正6年(1578)に山形城の城主最上義光が父親である義守が重病になった時、名僧として知られた日満上人を召還し祈祷を行った所、見事完治しました。以後、義光は篤く帰依し、山形城の城内に1万坪の境内を与えると寺院として七堂伽藍を整備し妙法山法華寺と名付けられました。最上家が元和8年(1622)に御家騒動が元で改易となると、庇護者を失い衰微し日桂上人を迎えて普光山本眷寺に改称し日蓮宗の総本山身延山久遠寺の直末となっています。

寛永13年(1636)に保科正之が入封すると庇護を受けます。正之は徳川幕府2代将軍秀忠の庶子(3男又は4男)だった事から秘密裏に見性院(穴山信君の未亡人)に預けられ、その後、保科正光の養子となり高遠藩(長野県伊那市高遠町)3万石の藩主に就任し、成長をまって山形藩20万石に抜擢されました。正之の生母は武蔵国板橋郷竹村の大工の娘とされる静で(秀忠が鷹狩りの際に見初められたとされ、正式な側室では無く身分も低かった事から北条氏旧臣・神尾栄嘉の娘とされたとも。)日蓮宗を篤く帰依していた事から寛永12年(1635)に死去すると高遠城の城下にある長遠寺に葬られ、その後、浄光寺(福島県会津若松市)、さらに身延山久遠寺(山梨県身延町)に改葬されています。正之の山形藩移封に伴い長遠寺から日遵上人を召還し、静の位牌が本眷寺に安置した事で静の戒名「淨光院殿法紹日恵大姉」に因み本眷山浄光寺に改称しています。寺宝には保科家縁の葵緋紋白五條袈裟や同紋重箱等があり鉄造毘沙門天立像(室町時代作)は昭和60年(1985)に山形市指定有形文化財となっています。宗派:日蓮宗。

浄光寺:写真

浄光寺
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