長谷堂観音堂(山形市)概要: 長谷堂観音堂の創建は前九年合戦(永承6年:1051年〜康平5年:1062年奥州安倍氏の反乱)を平定した源頼義(河内源氏2代目棟梁)が凱旋帰国の為当地を訪れた際、日頃から奈良長谷寺の分霊を持仏として信仰していた事もあり、霊夢に観音菩薩の化身が立ち、「我をこの地に納めよ」との御告げありました。
頼義は早速、御堂を造営し持仏だった観音像を安置したのが始まりと伝えられています(持仏は行基菩薩が彫刻したという黄金仏で現在は本尊の胎内仏となっています)。その後は歴代領主から帰依され、特に境内に長谷堂城が築かれると城主の信仰の対象となりました。
江戸時代に入ると歴代山形藩(藩庁・山形城)の藩主から庇護され、特に秋山家の信仰は篤く嘉永元年(1848)に火災で焼失すると堂宇の再建に尽力しています。
現在の長谷堂観音堂はその当時のもので宝形造、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、素木板張、向拝木鼻には獅子、象の彫刻が施されています。
往時は観音寺が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、廃寺となり近年は麓にある長光院(納経所)が管理しています。普段は全く人気がありませんが観音堂正面の壁にはびっしりと納札が貼られ信仰の篤さが感じられます。
長谷堂観音堂の境内は風致に富、苔生した鎮守社(一間社流造、銅板葺)や鐘楼(切妻、鉄板葺)、石仏、石塔、石碑、報秋元○惠澤標などが建立されています。
最上三十三観音霊場第12番札所(札所本尊:十一面観世音菩薩、伝:行基菩薩作・御詠歌:いくたびも まいるこころは はせどうの やまもちかひも ふかくなりけり)。宗派:真言宗。
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