山形市(歴史)概要: 山形市の歴史は古く大ノ越古墳や嶋遺跡など古代から支配階層があり中央政府とも繋がりがあったとされます。中世に入ると奥州探題だった斯波氏が山形市周辺に土着し後に最上氏と名乗り大きな影響力を持つようになります。最上義光の時代に最盛期を迎え、東北の関ヶ原の戦いと言われる出羽合戦で上杉勢の猛攻を耐えたことより山形県全域と秋田県の由利郡、雄勝郡を含む57万石の大大名となります。義光は平城では日本最大級の広さを持つ山形城の拡張や城下町の建設、新田開発や社寺仏閣の造営など多くの実績を上げ、実石高は100万石とも200万石とも言われた領国経営を積極的に行い、中心地だった山形の町づくりは現在の山形市の基礎となるものでした。しかし、その多くは義光一代で急速に行なったものが多く義光が死去すると家督争いが激化し慶長6年(1601)にお家騒動の為改易となります。その後は山形の地が有力外様大名だった伊達氏、佐竹氏、上杉氏と領土が近接していた事もあり徳川家の重臣である鳥居氏が24万石で山形藩を引き継ぎます。しかし、時勢が安定してくると山形藩の重要性が次第に薄れ、比較的石高の低い大名が短期間で何度も交代するという特異な地域となりました。現在の山形市は短期間で藩主が交代していたせいか初代山形藩主だった最上義光縁の鳥海月山両所宮(山形市指定文化財)や専称寺(駒姫菩提寺)、光禅寺(最上家菩提寺-庭園:山形市指定名勝)などの多くの社寺が残され「小京都」にも認定されています。又、山形県初代県令三島通庸は山形市を県都として恥じぬように洋風化政策を断行し山形県庁舎(国重)や済生館(国重)、山形師範学校(国重)などの洋風建築が点在しています。
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