山形市(歴史)概要: 山形市の歴史は古く、ひゃくじ遺跡からは縄文時代早期の田戸並行式期の土器や石器が出土し、江俣遺跡からは籾圧痕のある弥生時代の土器、七浦遺跡や今塚遺跡等からは石包丁が出土しています。
大ノ越古墳は5世紀後半に築造されたと推定される円墳で、山形市指定史跡に指定され、副葬品である単鳳環頭大刀、直刀、鉄剣、馬具、工具、土師器等が山形県指定文化財に指定されています。
嶋遺跡は古墳時代後期の集落遺跡で、平地建物跡や高床建物跡、土師器、杵、鋤等の木製農具、植物の種等が確認され貴重な事から国指定史跡に指定されています。
出羽国が立国すると最上郡に属し、当地には中央と当時の出羽国の国府が置かれた秋田城を結ぶ官道の駅家である最上駅が置かれ、最上郡衙は山形市北東部の印役町・鈴川地区から天童市南部にかけての地域を移動したと推定されています。
貞観2年(860)には清和天皇の勅願で慈覚大師円仁が山寺立石寺を創建、当地にも仏教の布教が始まり、吉祥院や瀧山寺も同時期に開創されたと伝えられています。
平安時代末期頃には出羽国府が日本海側から山形市北方に遷り、国分寺も市内に境内を遷したとされ、出羽国の中心地として重きを成しました。
一方、天皇家の荘園である大山庄や摂関家の荘園である大曾祢庄が成立し、大曾祢庄は奥州藤原氏が現地管理者として租税の徴収等を行っています。
鎌倉時代に入ると大曾祢庄の地頭職として安達氏が就任し、荘園管理の為に当地に下向した安達氏の一族は地名に因み「大曾祢」姓を掲げました。
しかし、弘安8年(1285)に発生した霜月騒動で惣領家である安達泰盛が政争で敗れ粛清された際に大曾祢氏も没落しています。
延文元年(1356)に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部すると、本拠地となる山形城を築きそこを北朝方の拠点とし、南朝方と対峙しています。
兼頼の後裔は地名に因み「最上」姓を掲げ、社寺の保護や領内の整備を行い長く当地を支配しました。
最上義光の時代に最盛期を迎え、慶長5年(1600)に発生した東北の関ヶ原の戦いと言われる慶長出羽合戦で東軍として西軍の上杉勢の猛攻を耐えたことより山形県全域と秋田県の雄勝郡(後に由利郡と交換)を含む57万石の大大名となります。
義光は平城では日本最大級の広さを持つ山形城の拡張や城下町の町割り、新田開発、社寺仏閣の造営など多くの実績を上げました。
領国経営を積極的に行った結果、実際の石高は100万石とも200万石とも云われ、中心地だった山形の町づくりは現在の山形市の基礎となるものでした。
しかし、その実績は義光一代で急速に行なったものが多く、慶長19年(1614)に義光が死去すると家督争いが激化し元和8年(1622)にお家騒動の為改易となります。
その後は山形の地が有力外様大名だった伊達氏、佐竹氏、上杉氏の領土と近接していた事もあり徳川家の重臣である鳥居氏が24万石で山形藩を引き継いでいます。
しかし、時勢が安定してくると山形藩の重要性が次第に薄れ、比較的石高の低い大名が短期間で何度も交代するという特異な地域となりました。
戊辰戦争の際では奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦いましたが、慶応4年(1868)に降伏し、家老である水野元宣が全ての責任を負って切腹しています。
明治3年(1870)に藩主の水野忠弘は近江国朝日山藩5万石で移封となり、山形藩は廃藩、その後は明治政府の直轄地となっています。
現在の山形市は短期間で藩主が交代していたせいか初代山形藩主だった最上義光縁の鳥海月山両所宮(山形市指定文化財)や専称寺(駒姫菩提寺)、光禅寺(最上家菩提寺-庭園:山形市指定名勝)などの多くの社寺が残され「小京都」にも認定されています。
又、山形県初代県令三島通庸は山形市を県都として恥じぬように洋風化政策を断行し山形県庁舎(国重)や済生館(国重)、山形師範学校(国重)などの洋風建築が点在しています。
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