東根市(歴史)概要: 東根市の歴史は古く、市内には数多くの縄文時代の遺跡が発掘され、当時から比較的に生活しやすかった環境下にあった事が窺えます。仁和2年(886)に最上郡が最上郡と村山郡に分かれると、現在の東根市郡山付近に郡衙が置かれ、周囲は条理制に基づき地割され延喜式で記されている「村山駅」も開設されました。
鎌倉時代に入ると東根市一帯は地頭職となった小田島氏が東根城(東根市大字東根)を中心に支配し、南北朝時代では南朝方の武将として活躍します。応永2年(1395)に天童頼直の四男、頼高が東根城に入り東根氏を名乗ると戦国時代には、天童氏の有力な家臣として「天童八楯」の一角を占めるようになります。
天童氏と最上氏の対立が激化すると、最上氏は「天童八楯」の分断を画策し、東根氏に対しても内部工作を展開、家臣だった里見景佐を最上氏側に引き入れる事で東根城は落城します。
里見景佐は最上氏の有力家臣として重用され、関ヶ原の戦いでも功を上げるなど1万2千石の大身となり、東根城の大幅な改修や城下町の整備などを行い現在の東根市の基礎となる町づくりをします。
しかし、元和8年に最上家がお家騒動により改易させられると東根城は廃城となり一時、山形藩鳥居氏の支配となりますが寛永20年(1643)からは天領となり、最上満家が隠居の地として築城した長瀞城跡(東根市大字長瀞)に尾花沢にあった代官陣屋を移し代官支配となります。
寛政10年(1798)に長瀞陣屋に米津氏が1万2千石で入り長瀞藩を立藩すると代官所は宮崎に移され、さらに文政7年(1824)に東根陣屋と統合します。
戊辰戦争時に長瀞藩は白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加した為、開戦当時官軍側にあった天童藩と交戦となり東根市は戦火にまみれ長瀞陣屋も炎上、落城します。
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