東村山郡中山町(歴史)概要: 中山町は中世中山氏の築いた長崎楯の城下町として発展した町です。中山氏は元々鎌倉幕府の御家人でしたが、大江氏が承久の乱で上皇方についたため、共に寒河江へ下向する事となります。中山氏は代々この地を治め、城郭の整備だけでなく城下町の建設や寺院の勧請など行い安定した領土経営を行い最盛期には8千石を有するまで成長しました。特に8代城主だった中山玄蕃頭朝政(墓碑である玄蕃壇は中山町指定文化財)は名君として知られ、一時乗っ取られた長崎楯に返り咲き、地域開発を積極的に行なったとされます。天正12年(1584)に大江氏が最上氏に滅ばされると、時の城主中山朝正は最上氏に臣従し、庄内侵攻などで功を上げたとされます。関ヶ原の戦いにおいては上杉勢の猛攻にあい長崎楯は落城し、元和8年(1622)に最上氏が改易すると廃城となります。その後は領主が短期間で入れ替わる不安定な世情となりますが、最上川舟運の発達に伴って、黒滝開削以前は終着港だった長崎船着き場には多くの物資が運びこまれるようになりました。そのような中で船頭達が好んで食したのが芋煮だったと言われ、荷受けの時間が不安定だった事から時間調整には都合が良かったとされます。又、岡集落では豪農だった柏倉家一族が中心で形成され長塀が続く風情のあるる町並みがあり当時の様子を伝えてくれます。
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