玄蕃壇(中山町)概要: 玄蕃壇は長崎城8代城主中山玄蕃頭(朝政)の墓所です。当地は元々長崎城の二ノ丸に位置し、そこに中山氏の菩提寺である円同寺の境内が構えられましたが元和8年(1622)に最上家が改易になると長崎城は廃城、宝永元年(1704)には円同寺も他所に移った事から墓所だけが残され現在は小祠が鎮座しています。
中山家は鎌倉時代以降、寒河江大江氏の家臣として当地を支配していましたが、天正12年(1584)に最上家の侵攻により大江氏が滅ぶと、当時の当主朝正(朝政の子供)は最上家に臣従し7千石分の領地が認められました。
その後は最上家の有力家臣として尽力し天正15年(1587)の庄内侵攻で功を挙げ、庄内地方の領主大宝寺氏の居城だった尾浦城の城代の任を任せられ、慶長5年(1600)の関が原の戦いでも寒河江城に立て籠もり上杉軍と交戦しましたが、最上家改易後は当地を離れています。
案内板によると「長崎楯八代(現在の中山町)の城主中山玄蕃朝政が天正11年(1583)68歳で死去、埋葬された墓所。朝政は50余年の間地域開発と住民統治を果たし、領民の尊崇篤く"玄蕃さま"と慕われた。」とあります。玄蕃壇は昭和43年(1968)に中山町指定文化財(遺跡)に指定されています。
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