尾浦城

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概要・歴史・観光・見所
尾浦城(別名:大浦城・大山城)概要: 尾浦城の築城は天文元年(1532)尾浦城(鶴岡市)に当時一帯を支配していた武藤氏が築いたとされます。当初武藤氏は大宝寺城(鶴ヶ岡城)を居城にしていましたが、最上氏、上杉氏の台頭と家臣だった砂越氏などの不穏の動きから、より堅固の城郭の築城が必須となり大山の尾浦城に居城を移しました。尾浦城は標高273.8mの高館山の丘陵の先端(標高50m程)に築かれた、山城と平山城の中間位の城で、背後の日本海には良港である加茂湊、前面には外堀と見立てた大山川が流れていました。現在、三吉神社が鎮座している平場が主郭で武藤氏の居館があったとされ、その西側の副郭には隠居所や穀物蔵が配され主郭との間には深い空堀で分断され、周囲には多くの小郭で囲われていました。

その後、当時の領主武藤義氏は上杉氏と手を結んだ事を背景にして庄内地方をほぼ制圧しますが、天正11年(1583)、従属していた砂越氏、来次氏、前森氏(後の東禅寺氏)が山形城の最上義光の画策により次々と謀反を起こし自害へ追い込まれます。後を継いだ弟の武藤義興(丸岡城藤島城の城主)尾浦城(鶴岡市)は上杉氏の家臣である本庄繁長から養子(義勝)を迎える事で上杉氏の従属関係を深め再度庄内地方を統一しようとしましたが、天正15年(1587)東禅寺氏が最上義光と内応した為、再び最上軍が庄内に侵攻、義興は自刃し養子に入った義勝は実家のある小国城(温海町)に落ち延びていきました。天正16年(1588)、義勝は実の父親である本庄繁長へ援軍を要請、再度庄内に侵攻し十五里ヶ原の戦いで勝利を収め、名目上は武藤氏が庄内を治める事になりました。

しかし、天正18年(1590)、奥州仕置きでの検地の最中、庄内地方では反発する旧国人領主達が各地で一揆を起こし、繁長、義勝親子はその責任として領地を没収され(大和国に流されましたが、朝鮮の役の功で上杉家の家臣として復権)、庄内地方は主家である上杉景勝の直接支配となりました。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で上杉家は西軍につき敗北、翌年の慶長6年(1601)には最上氏によって庄内地方が占拠され、上杉家は米沢藩に大減封となり、最上氏の支配が確定されます。

最上氏は下治右衛門秀久を尾浦城に1万2千石で配し大改修すると大山城と名称を改称、慶長19年(1614)に跡を継いだ下治秀実が暗殺されると大山光隆(義光の6男)が2万7千石で配されました。元和元年(1615)の一国一城令により主要部が麓に移され、元和8年(1622)御家騒動により最上義俊が改易されると大山城(尾浦城)は廃城となります。現在は大山公園として整備され、郭の形状や堀切の遺構を見る事が出来ます。

尾浦城:写真

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